化膿止めに飲んでる抗生物質の副作用で、お腹がゴロゴロしてたまりません。
抜糸の時期も1週間から2週間にのびてるし。
会社を出たら予想GUYにそっくりな人見ちゃったし。
石原慎太郎のフィクション映画を見るぐらいならドキュメンタリーを見たいと言っていたら、日系人監督が作ったドキュメンタリー映画『TOKKO-特攻-』をやっていたので、行ってきた。
この監督は、叔父が元特攻隊員だったという。そのせいかこの映画では「特攻隊は9.11に始まる自爆テロリストとは種類が違う。戦争を否定しながらもなお行かなくてはならなかったつらい立場の人たちなのだ」という主張が強く出ているようだった。
それはそれで間違ってはいないと思うのだが、それを表現する方法として、4人の元特攻隊員のインタビューに終始してしまったのはちょっと隔靴掻痒、もっとはっきり言えば、底が浅い気がした。
実際、死ぬのはいやだ、戦争は駄目だと口を揃えて言う4人だが、そのうちふたりは戦後海上自衛隊に籍を置いている。それこそしごきで死ぬような目に遭わされ、後には実際に死を命じられて塗炭の苦しみを味わったはずの彼らが、軍隊という枷をはずれた後でなぜまた再びその道を選んだのか。カミカゼが残した物をとことんまで追いかけたいのであれば、そういった部分も監督はまた掘り下げるべきだったのではないか。
カミカゼという行為の悲惨さを訴えたいばかりに、監督はそういう「都合の悪い事実」からは目を逸らしているように見える。
もっとも、それはこちらが日本人だからそう感じるのであって、アメリカ人からしてみれば、特攻隊員は冷酷なテロリストでも愚かな人間兵器でもなく、実は自分の“死すべき任務”に疑問を持ち苦しんでいた人間だった。彼ら個人には罪はなく、当時の大日本帝国や昭和天皇(この映画では、昭和天皇が特攻戦術を称賛し推進していたように巧妙に印象づけられている)が“悪”だったのだで終了すればそれでいいのかもしれない。
そして、もっとぶっちゃけた言いかたをすれば、監督自身が「叔父の“無実”」を確信し、それを世の中に発信できれば、それで満足ということなのだろう。
最近、若手の日系人が作った太平洋戦争時のドキュメンタリーが話題になるが、何だかどれもロジカルではなくエモーショナルな方向性に終始しているようなのは、やはり彼らも日本人の精神性から抜けきれていないということなのだろうか?
あと、エンドクレジットに『同期の桜』を使うのは、どう見ても間違ってると思う。