素直じゃない子

 最近素直でないブロッサム、通称ちびころ。

 呼んでも来ないくせに、知らんぷりしているといつの間にか人間様に寄り添っている。
 じゃあ掻いてやるかと指を出すと、とことこと逃げていってしまう。
 そして少し離れたところから、じっとこちらを見つめている。
 人間様が何かとビビをかまうので、彼女なりにやきもちを焼いているらしい。

実録間違った条件付け

 どうやらビビは、テーブルの上に降りるのが恐くてたまらないらしい。

 大好物のヒマワリの種で釣っても、右往左往するだけで降りられないビビ。
(クリックするとムービーが始まります。WMVファイル 2.4MB 13秒)

 仕方がないので割り箸で橋をかけてやってヒマワリを取らせ、少しずつテーブルに慣らそうと画策。
 するとすぐに割り箸を伝ってヒマワリの所まで来るようになったビビ。
(クリックするとムービーが始まります。WMVファイル 2.0MB 10秒)

 そして、割り箸を出すといそいそと乗ってきて、何か言いたげに人間様を見るようになったビビ。
 どうやら今度は「割り箸に乗ればヒマワリがもらえる」と覚えてしまった模様。
(クリックするとムービーが始まります。WMVファイル 2.3MB 12秒)
 ……やはり、世の中は思い通りにいかないものである。

おまえのものはおれのもの

 よそのごはんはおいしい。

 まるで昔からそこに住んでいたような顔で、ブロッサム、通称ちびころのエサをむさぼるぎっくちゃん。
(本人は外でヒマワリの種に夢中)
 出そうとすると逃げ回るので、最後は掴んで無理矢理引きずり出したらまあぎゅーぎゅー怒ること怒ること。
 実はジャイアニズムなインコなんだなお前。

偽垂れ写真

 視聴者が政治に魅力を全く見いだせなくなるようなネガティブキャンペーンしまくりながら、一方で選挙に行け行けと良識ぶって煽るマスコミも、いい加減恥を知らない商売だと思う今日この頃。

 もふもふになって羽づくろいしている姿を写すつもりだったのに、垂れ写真と区別がつかなくなってしまった。

新しい宝物

 割り箸を入れてやったら嬉しいらしく、しきりに持ち歩いてはあっちこっちに差し込んでみている。
 オキナインコは木の枝で巣を作るそうなので、もしかすると営巣行動なのだろうか?

 宝物入れに入れようとしたらしいが、さすがにこれは入らない。

 で、オブジェに加えることにしたらしい。

64年前のぼくのなつやすみは戦争中だった

 化膿止めに飲んでる抗生物質の副作用で、お腹がゴロゴロしてたまりません。
 抜糸の時期も1週間から2週間にのびてるし。
 会社を出たら予想GUYにそっくりな人見ちゃったし。
 石原慎太郎のフィクション映画を見るぐらいならドキュメンタリーを見たいと言っていたら、日系人監督が作ったドキュメンタリー映画『TOKKO-特攻-』をやっていたので、行ってきた。
 この監督は、叔父が元特攻隊員だったという。そのせいかこの映画では「特攻隊は9.11に始まる自爆テロリストとは種類が違う。戦争を否定しながらもなお行かなくてはならなかったつらい立場の人たちなのだ」という主張が強く出ているようだった。
 それはそれで間違ってはいないと思うのだが、それを表現する方法として、4人の元特攻隊員のインタビューに終始してしまったのはちょっと隔靴掻痒、もっとはっきり言えば、底が浅い気がした。
 実際、死ぬのはいやだ、戦争は駄目だと口を揃えて言う4人だが、そのうちふたりは戦後海上自衛隊に籍を置いている。それこそしごきで死ぬような目に遭わされ、後には実際に死を命じられて塗炭の苦しみを味わったはずの彼らが、軍隊という枷をはずれた後でなぜまた再びその道を選んだのか。カミカゼが残した物をとことんまで追いかけたいのであれば、そういった部分も監督はまた掘り下げるべきだったのではないか。
 カミカゼという行為の悲惨さを訴えたいばかりに、監督はそういう「都合の悪い事実」からは目を逸らしているように見える。
 もっとも、それはこちらが日本人だからそう感じるのであって、アメリカ人からしてみれば、特攻隊員は冷酷なテロリストでも愚かな人間兵器でもなく、実は自分の“死すべき任務”に疑問を持ち苦しんでいた人間だった。彼ら個人には罪はなく、当時の大日本帝国や昭和天皇(この映画では、昭和天皇が特攻戦術を称賛し推進していたように巧妙に印象づけられている)が“悪”だったのだで終了すればそれでいいのかもしれない。
 そして、もっとぶっちゃけた言いかたをすれば、監督自身が「叔父の“無実”」を確信し、それを世の中に発信できれば、それで満足ということなのだろう。
 最近、若手の日系人が作った太平洋戦争時のドキュメンタリーが話題になるが、何だかどれもロジカルではなくエモーショナルな方向性に終始しているようなのは、やはり彼らも日本人の精神性から抜けきれていないということなのだろうか?
 あと、エンドクレジットに『同期の桜』を使うのは、どう見ても間違ってると思う。