如月--『畝傍』消失
 お稽古から帰った私を出迎えたのは、少し青い顔をしたお喜和ばあやでした。 「どうしたのばあや。なにかいやなことでもあって?」 「お嬢様、琉様が……行方知れずになったそうですよ」 「えっ?」 琉さんというのは、うちに下宿している海軍さんです。お父様の遠縁にあたる人で、他に身寄りがないこともあって去年の春士官学校を卒業してからここでお世話しています。物静かで立ち居振舞いに隙がなく、おまけに眉目秀麗でまるで芝居の役者のような美男子なので、ご近所の女の人や友だちの間では大人気なのだけど……あまり感情を表に出さないからとっつきにくくて私は苦手です。 優しい人ではあるんですけどね。 「だってばあや、琉さんは航海に出ているじゃないの。海に落ちでもしたというの?」 琉さんは今、『畝傍』という艦に乗っています。なんでも英国で作られた最新鋭の戦艦だそうで、これで日本も列強に近づいたと新聞が書きたてているのを見た琉さんは珍しく苦笑していたんですが……。 「それが、乗っていたお船ごとなんだそうです」 「まさか、沈んだとか?!」 「いえ、そういうわけではないようなんですが……とにかく、旦那様が帰ってくるなりそうおっしゃってひどく心配してらっしゃるんですよ。早く行っておあげなさいまし」 最初からそう言ってくれればいいのに……と私は思いながらも、荷物をばあやに預けてお父様の部屋に向かいました。
窓から外を眺めてなにか考え込んでいたお父様は、私が声をかけると振り返って笑顔を見せました。 「おおゆき乃、帰ったか」 「ばあやから聞きました。琉さんが船ごと行方知れずですって?」 「うむ」 また難しい顔になったお父様は、ひとつうなずくと畳に正座し……私がまだよそ行きなのに気付いたようで、まあ着替えてきなさいと言いました。私は首をふるとお父様の前に座って、ばあやの話からではさっぱり分からなかった詳しいことについて尋ねました。 「実は、お父様もよくは知らないのだよ。海軍に問い合わせをしたんだがどうも要領を得なくてな。もしかすると、あまり細かいことを公にはしたくないのかもしれん。なにしろ最新鋭艦が消息不明になったとなれば、大不祥事だからなぁ」 お父様と琉さんを見ていると全然実感がわきませんが、実は陸軍と海軍は、仲がわるいというほどではないにせよいまひとつ折り合いはよくないそうです。なんでも、作るときに陸軍が参考にしたのが独国、海軍が参考にしたのが英国なので、しきたりやなにかが噛み合わないせいだというのが琉さんの説明なんですが……同じ帝国の軍隊なのにどうしてそうなってしまうのか、私にはさっぱりわかりません。 ……それはさておき、だから、陸軍中佐で陸軍省勤務のお父様が問い合わせても海軍さんが詳しいことを教えてくれないというのは、なんとなくうなずけます。 「中牟田のおじさまは?」 お父様のお義兄様にあたる中牟田倉之助海軍大将ならなにかご存知かも、と思いましたが、お父様は黙って首をふりました。いくら親戚筋とはいえそういう組織を無視したようなことをなさるのはお父様は嫌いですし、それに、実は中牟田のおばさま……お父様のお姉様です……はお父様のことをよく思っていないので、遠慮してらっしゃるというのもあるのです。 その理由は、お父様が異人で捨て子の私を娘にしたのをおばさまが気に入らないからだ、という噂ですが。 「……とにかく、できるだけ調べてみる。『畝傍』のことだからそう簡単に沈没とかいうことにはなっていないと思うが……一応、覚悟しておきなさい、ゆき乃」 「……はい」 覚悟……それほど親しみを持っているわけではないとはいえ、琉さんが死んでいるかもしれないと思うと、なんだか少し奇妙な気分になりました。琉さんと仲が良かったお父様もつらいことでしょう。 ……でもこの後、私たちはもっとつらい思いをすることになるのです。 『畝傍』には、中牟田のおじさまのご長男でお父様の甥の隼人さんも乗っていたのでした。
その夜のことでした。 部屋で本を読んでいた私は、なにかが落ちる音にびっくりして振り返りました。見ると、鏡台に置いてあったブラッシが畳の上に落ちています。 このブラッシは、髪がちぢれているので櫛が通りにくいと私がぼやいていたのを聞いた琉さんが、小間物屋で見つけたからと買ってきてくれたものです。私と同じように髪がちぢれた西洋人が使うものだそうですが、確かに梳きやすくて気に入っています。 そんな落ちるようなところに置いたかしらと、私はいぶかりながらも立ち上がってブラッシを拾いました。鏡台の上に置きなおそうとして何気なく鏡を見……息を飲みました。 鏡に映る部屋の中に、琉さんが立っていたからです。 思わず振り返ってみましたが、そこには誰もいません。なのに、鏡を見直すと確かに琉さんが立っています。いつものように海軍の制服を着てきちんと帽子をかぶり、なにをするでもなくただ静かにどこかを見ています。 「……琉さん?」 恐る恐る、私は鏡によびかけてみました。子供の頃からこういったものは見慣れていましたから、最初の驚きがすぎると別に恐いとは思いません。ただ、この琉さんが生霊なのか死霊なのか、それを考えると不安になりました。 私のよぶ声は琉さんに聞こえたようでした。それまであらぬかたを見ていた眼を、私のほうへ向けたからです。そして、何かを言わんとするかのように唇が動き……そのまま、その姿は消えました。 ……なにかが起こっている……。 誰もいなくなった鏡を見ながら、私はそう感じました。 『畝傍』が行方知れずになったのはその前触れ……探さなくちゃ……。
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