ゆき乃の手記 十二

師走---風紋



 その朝、座敷をのぞいた私は、お父様が新聞を前に妙に難しい顔をしているのを眼にして首をかしげました。
「お父様、なにか嫌な記事でも載っていて?」
「あ、いや……」
 私が来たのにそれまで気付いていなかったのか、お父様は慌てて新聞を閉じました。そしていやに几帳面な仕草でそれをたたむと部屋の隅に置き、お喜和はとかなんとかつぶやきながらそそくさと立ち上がって部屋を出ていってしまいました。
 ……一体なにがそんなに気に障ったかと気になった私は、気配が遠くなるのを待って新聞を取り出し、ちらりと見えた広告の字を頼りにお父様が開いていたとおぼしき頁を開いてみました。
 そこに出ていたのは、天魔王を退治した憂国会と三島透尋さんを絶賛する記事でした。


「そろそろ寒くなってきたわねぇ」
 お茶碗を手にしながら、弥生ちゃんがほのぼのと言いました。
「弥生ちゃんのお仕事はこういう季節が大変ね」
「そうねぇ、でも自分で選んだ仕事だし」
 弥生ちゃんがやっている、西洋で言う看護婦の仕事が厳しいのには驚くばかりです。まだ数が少ないせいもあるのかもしれませんが、真夜中だろうが早朝だろうが、怪我人が出た、急病が出たといっては呼び出され、お休みも満足に取ることもできません。さらにその上、普通に朝から夕刻までのお勤めもあるのですから、そのつらさといったら女工なみです。一体なにを好きこのんでそんなお仕事をと思うこともあるんですが、今のように「自分で選んだ仕事」と笑う弥生ちゃんを見ると、正直うらやましい気がするのも確かでした。
 私には、そんな風に言えるものがあるんでしょうか……。
「……ところで、今日はなにかご用があるんじゃないかしら、弥生ちゃん?」
「相変わらず察しがいいのね、ゆき乃は」
 弥生ちゃんは苦笑し、お茶碗を置いて表情を改めました。そして、透尋さんのことなんだけど、と口を開きました。
「透尋さんがなにか?」
「お父様が気にしているの。実は、海軍の若い人たちの中にも、透尋さんに賛同する人が増えてきているらしくて……どういうつもりなんだろうって」
「ふぅん」
 政府や軍の腐敗を批判し、軍人は武士の志を持つべしと説く透尋さんの主張は、私も時折耳にしたことがあります。確かにその話にはうなずける部分も多いし、皆が惹きつけられるのも分からないでもないですが……身内ゆえの厳しさからか、私は透尋さんの、どこか熱病にでもうかされているようなその姿に少し不安なものを感じていました。
「透尋さんは仁科のほうの縁だし、そうそう表だって訊くこともできないでしょ。政信叔父様ならなにかご存じかもと思って来てみたのよ」
「そう……」
 私は少し考え込んでしまいました。
「……でも弥生ちゃん、お父様にはその話、しないほうがいいかもしれないわ」
「どうして?」
「正直なところを言うとね……」
 新聞を見ていたお父様の難しい顔を思い出して、私は言葉を切りました。そして、どう言おうかちょっと考えてからまた続けました。
「正直に言うと、お父様、透尋さんにはちょっと困ってらっしゃるらしいの」
「困ってらっしゃる?」
「ええ、軍人が天下国家のことに口を出すべきじゃないというのがお父様の考えだから……もちろん、透尋さんが活躍して認められるのは嬉しいし、力になれることがあるなら何でもやってやろうと思ってはいるのだけど……」
 軍は国家の刀であり、抜かれた時に相手を斬れば良い。抜かれもせぬのに自ら鞘を飛び出すような刀はただの邪刀で災いのもとでしかない、と常日頃言っているお父様から見れば、透尋さんの意見は軍人としての分を越えたものに見えるのでしょう。
 ただ、お父様は甥で同じ陸軍の透尋さんをとても可愛がっていましたから、たとえ透尋さんが自分の思うところと違うことをしているとしても怒ることができず、弱っているというのが実際のところなのでした。
「まあ……それじゃあお願いするわけにもいかないわねえ」
 弥生ちゃんはそっと眉をひそめました。私はうなずき、ふと思いつきました。
「弥生ちゃん、もし良ければ、私が調べてみましょうか」
「ゆき乃が?」
「ええ、透尋さんの所には良く行っているし。お仕事の……ええと、憂国会のほうのお手伝いをすることもあるから」
「……またおてんばしているのね。駄目よ、従姉としてそんなことさせるわけにはいきません。この間あんなに怪我をして政信叔父様を心配させたのを忘れたの?」
「べ、別におてんばしてるわけじゃないわ。それに、お手伝いっていっても繕い物したりとかお弁当を差し入れしたりとか、そんなことばかりだもの」
 大丈夫よ、と私は請け合いました。弥生ちゃんはしばらくの間、探るように私をじっと見ていましたが、やがてため息をついてお願いするわと言いました。
「でも、絶対に危ないことはしないでちょうだいな。私もお父様もそんなの少しも有り難いとは思わないんですからね。約束よ」
「はあい、分かりました」
 ……透尋さんが起こす風は、確実に私たちの間に跡を残しはじめています。
 この風が私たちの心を乱すだけで終わるのか、それとも容赦なく皆を吹き飛ばしてしまうのか、私にはまだ皆目分かりませんでした。

 040でのDRS「三島透尋の従妹」をネタに書いたものです。
 三島くん、どうやらこの先クーデターを起こすらしいですが、さてゆき乃はどうなることやら。004とはまた違う意味で楽しみです。