睦月---長い夜

「……誰?」
真夜中に、ふと人の気配を感じて私は眼を覚ましました。雪のせいか硝子窓がほのかに明るく見える中、布団の足元に端然と座した人影がひとつありました。
それは、死んだ中牟田の隼人さんでした。
「……隼人さん?!」
飛び起きる私をおしとどめるように、黒々とした制服姿の隼人さんはゆらりと腕を上げました。それは隼人さんがなにか言いたいことがある時の癖で、生前と変わらないその仕草に、私は胸が痛くなるような気がしました。
「どうしたの? 私に話?」
そっと尋ねると、隼人さんはかすかにうなずきました。その口が開き、言葉を紡ぎ出すようにゆっくりと動くのが薄闇の中で分かりました。
……ハンラン……
「……はんらん?」
口の動きはそう読めました。私がくり返すと、隼人さんはまたうなずきます。
……ユキヒロ……サン……ハンラン……トウキョウヲ……
「透尋さん? はんらんって……叛乱?」
みたび、隼人さんの頭がこくりと上下に揺れました。帽子の下で、懐かしい顔がふと悲しげに歪んだように見えました。
……コノママデハ……ニホンヲ……
「あ……隼人さん、待って!」
そして不意にその姿が揺らめき、薄れました。思わず声をあげた私は、そこでようやく家の中がなんだか慌ただしいのに気付き、一体なにがあったのかと不審に思いました。そして、隼人さんのことが気になりつつも、とりあえず綿入れを羽織ると寒い中を起き出したのでした。
「お父様!」
門の外で馬に乗ろうとしていたお父様は振り返りました。そばには提灯を持ったばあや、多津、それに馬の蹄に巻いた滑り止めの藁を調べる従兵がいます。白い息を吐きながら立つ皆の様子のものものしさに、私は思わず立ち止まりました。
「中に入ってなさいゆき乃、風邪を引くから」
「お父様、どちらへ?」
私が尋ねると、お父様はなんでもないというように手をふりました。
「なに、ちょっと呼び出されてな、軍令部まで行ってくる」
いつもと同じ調子で言うその言いかたは、この時に限っては少しばかり抑揚が大きすぎるように感じられました。お父様がどんな顔をしているのかは、提灯の光が作る濃い影に隠れて良く分かりません。
「戻るのは日が昇ってからになるだろうから、待っていないで寝なさい。お喜和、多津、お前たちももういいから中へ」
「はい。行ってらっしゃいまし、旦那様」
「行ってらっしゃいまし」
ばあやと多津がそれぞれ頭を下げ、ばあやは従兵に包みを……多分温かい握り飯かなにかでしょう……渡すと、私のほうに歩きだそうとしかけました。
……ターンという銃声が遠くでしたのは、その時でした。
それはかすかな音でしたが、真夜中の静けさの中で不思議なほどはっきりと響きました。続いてどこからかいくつかの銃声が重なり合い、しばらく続いた後唐突に途絶えました。
私たちは根が生えたみたいに立ちつくしました。
「……始まってしまった!」
数瞬の沈黙の後、お父様が鋭く舌打ちするとさっと馬に乗りました。そして手綱を取りながら私たちを見おろし、いつになくせっぱつまった調子で言いました。
「お前たち、これからすぐ中牟田の家へ……いやあそこも駄目だ、門を閉めて家を暗くして、中で静かにしていなさい」
「お父様、一体……」
「口をはさむな。いいか、誰が来ても絶対出ないで、危ないと思ったら土蔵に隠れるんだ。身ひとつでいい。なにか持ち出そうなんて考えるな、分かったな」
「お父様!」
「話は帰ってからだ。従兵、後から来い!」
「はっ!」
雪を蹴立てて駆け去っていく馬とお父様を、私はとっさに動くこともできずに見送りました。そんな私に従兵はぺこりとひとつお辞儀をし、包みを抱えて走っていきました。
「お父様、私も!」
「いけませんよ、お嬢様!」
我に返って後を追おうとした私の腕を、ばあやがしっかりとつかみました。
「お家に入るようにと旦那様はおっしゃったじゃありませんか」
「でもばあや、あの……あの銃声はただごとじゃないわ。なにが起こってるの? お父様はなにをしに行くの? 知ってるんでしょう、ばあや!」
「……誰か来ます」
ばあやがなにか答える前に、門を閉めようとしていた多津が低く言い、外のほうを指差しました。ばあやはさっと振り返り、駆け足で近づいてくる馬車の音を耳にすると顔色を変えて私の腕を引っ張りました。
「お嬢様、早く中へ!」
「待って、あれは……弥生ちゃんだわ」
門の外へ飛びだして手を振ると、それに答えるように馬車が止まりました。そして、ショールで顔を隠すようにした弥生ちゃんと中牟田の家の女中さんがふたり、あわただしく飛び降りたかと思うとこちらへ走ってきました。
「ゆき乃……政信叔父様は?!」
「たった今出かけたところよ」
飛び込んでくる弥生ちゃんを抱きとめるようにしながら私は答え、馬車がまた動き出したのに気付いて門の中へ入りました。ばあやと多津が門を閉めて閂をかけるのを眼の隅で見ながら、私は弥生ちゃんに尋ねました。
「弥生ちゃん、どうしてここへ?」
「お父様に出されたのよ。家にいるよりここのほうが安全だろうって」
「伯父様に?」
「ええ、なにがあろうと透尋さんは絶対ここには手を出させないはずだから」
「透尋さんが? なんで?」
「決まってるじゃないの、あなたと叔父様は透尋さんが……待ってゆき乃、あなた、なにも聞いてないの?」
きょとんとする私に、ショールをはずしながら弥生ちゃんはいぶかしげな眼を向けました。私が答えようとする前に、ばあやが素早く口をはさみました。
「旦那様がお話しにならなかったんですよ、弥生様」
「……何故? うちに連絡をくれたのは政信叔父様でしょう?」
「それが、とにかくあわただしく出られてしまったので……ですからお嬢様はまだなにもご存じないんです」
……苛立ったように問いつめる弥生ちゃんと、どこか歯切れの悪い調子でそれに答えるばあやを見ているうちに、ようやく私も事の次第を察しました。
そして、隼人さんがなにを言いたくて私のところに来たのかも。
「……叛乱、ね?」
ぽつりと私が言うと、ぎょっとしたようにばあやと弥生ちゃんが振り返りました。
「東京で叛乱……起こしたのは透尋さん……そうなんでしょう? ばあや、弥生ちゃん」
「…………」
ばあやも弥生ちゃんも、口に出してはそうだとは言いませんでした。でも、その顔を見れば答えは良く分かりました。
ドンドンドン! と門を叩く音が突然響き、皆びくりと身を硬くしました。
「憂国会の石田と申します。仁科大佐とゆき乃さんはご在宅ですか?」
「……家に入って弥生ちゃん、早く!」
「いけませんお嬢様、ばあやが出ます!」
歩き出しかけた私を思いがけない力で押しのけて、ばあやが門に駆け寄りました。ひとつ深呼吸をしてから通用口を細く開け「なにかご用ですか?」と尋ねます。
「夜分お騒がせして申し訳ありません。三島隊長の命令で、こちらの警備に参りました」
意外と丁寧な男の声が、ばあやに答えました。
「なんの警備でございましょう?」
「隊長は今夜、非常に重大な決意を実行に移されました。恐らく事は迅速に達成されることと思いますが……どんな不逞の輩が怪しからぬことを考えないとも限りません」
「……早く家に入って、弥生ちゃん。多津、お願い」
私がささやくと多津はこくりとうなずき、こわばった顔の弥生ちゃんや女中さんの手を取るようにして玄関に入りました。3人が奥に上がったのを確認すると、私はゆっくりと通用口に近寄りました。
「……そういった場合に備えて、我々3名がこちらで警備につくことになりました。勿論、仁科大佐を始めこの家の方々には一切ご迷惑はおかけしません……大佐はご在宅でしょうか?」
「父は先程、軍令部に出かけました」
憤慨したようにばあやがなにか言いかけるのを制して、私は通用口から顔を出しました。眼があうと石田少尉は、緊張した面持ちながらもにこりと笑って会釈しました。
私は会釈を返しながら、少尉以下3人の顔を確かめました。いずれも私が日頃から良く知っている人たちで、透尋さんは多分、私が恐がらないようわざわざそういう人を選んでここに寄越したのだろうと思いました。
そうです、透尋さんはいつだって優しいのです……。
「馬でしたから、多分追いつくのは難しいと思いますけど……」
「そうですか……できれば、大佐には家にとどまっていただくようにとのことだったのですが……」
私の言葉に残念そうに石田少尉はため息をつきました。そして顔を上げ、まっすぐに私を見ると力強く言いました。
「ゆき乃さん、三島隊長は、今夜非常に重大な決意を実行に移されました」
その台詞はさっきと同じものでしたから、私は返事をしませんでした。少尉はそんな私を気にする様子もなく、語を続けました。
「隊長からは、今回の行動がどのような結果に終わろうとも、皆さんのことは責任を持ってお守りするよう言われております。自分らがいる限り、この家と皆さんにはどのような輩にも指一本触れさせません。どうぞ安心してお休みください」
「…………」
従兄が叛乱を起こしたというのに、休んでいられるわけがありますか。迷惑ですから帰ってください。私はそう言おうとして口を開け……結局、なにも言えずにまた閉じました。
そして頭をひとつ下げ、通用口を静かに閉めるとばあやを促して家に戻りました。
「どうして追い返さなかったの、ゆき乃」
家に入ると、どうやら一部始終を覗いていたらしい弥生ちゃんがきつい声で尋ねてきました。
「あんなのに家のまわりをうろつかせておいたら、政信叔父様やあなたも叛乱側の一味だと見られるわよ。全く、自分たちが騒ぎを起こしたくせに、警備だなんて調子がいいったら」
「……分かってるわ」
こんなことになったというのに、不思議と、透尋さんを責める気にはなりませんでした。ただ、寒気にも似た、自分が突然ひとりぼっちになってしまったような淋しさが胸に迫り、私は思わず綿入れの前を合わせました。
「弥生ちゃん」
「なに?」
「これからどうなるのかしらね、私たち」
「…………」
その時、多分私はひどい顔をしていたんでしょう。いぶかしげに私を見た弥生ちゃんは、なぐさめるようにちょっと笑うと肩をそっと抱いてくれました。
「……ごめんなさい、言い過ぎちゃったわね」
いちばんつらいのはゆき乃なのにね、そういう弥生ちゃんに、私はただ、黙っていることしかできませんでした。
長い夜は、まだ明ける気配も見せていません……。
……1月26日深夜、従兄の三島透尋は、麾下の部隊をもって総理大臣官邸他帝都の政治中枢を占拠、伊藤博文総理大臣を始めとする政府要人をことごとく拘束しました。
そして、三島は新政府の樹立を宣言。多くの臣民がそれを支持、ここに三島を首班とする軍事政権が成立したのでした……。
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