皐月---行李の中から

それが出てきたのは、お父様の古い行李を整理している時のことでした。
舶来物の、男の子用の小さな洋服がひとそろい、お父様が若い時の着物の下に、まるで隠すようにして入っているのを見つけた私は、近くで別の行李を開けているばあやに声をかけました。
「ねえばあや、これ、誰の?」
武士だったお父様が子供の頃に洋服など着る訳がありませんし、亡くなったお父様のお子様は女の子でした。隼人さんか透尋さんのかしらとも思いましたが、それにしては、1着だけこんな行李の奥にしまってある理由が分かりません。
私がかかげた洋服を見たばあやは、「あらまあ、そんな所に……」と言ったきり、ちょっと困ったように黙りこんでしまいました。
「それは……名乃介坊っちゃまのお洋服ですよ」
「名乃介坊っちゃまって誰?」
「…………」
ばあやはまた黙り込んでしまいました。そして、私がじれったくなってきた頃ようやく口を開きましたが、その答えは首をかしげるようなものでした。
「お許しくださいましお嬢様、ばあやはそのお話はできないんでございますよ」
「何故? なにかはばかるような訳でもあるの?」
「いえ、そういうことじゃございませんけど……旦那様のお許しをいただかないとお話できないんです。あいすみません、お嬢様」
「?」
つまり、お父様から口止めをされているということのようです。なにがなんだかさっぱり分かりませんが、ここで無理矢理ばあやから聞き出すより、後でお父様に尋ねたほうが話は早そうでした。
「分かったわ、ばあや……この洋服、行李から出しておいても良くて? それも駄目と言われているの?」
「それは構わないと思いますけれど……旦那様にお聞きになるんですか?」
「そうよ、いけない?」
「いえ、そういう訳ではございませんけども……」
どうにも要領を得ないばあやを横目に見ながら、私はわざと丁寧に洋服を畳み直し、自分の横に置きました。そんな私を、ばあやがどこか気になるような顔で見ているのが感じられました。
「それは……お前が見つけたのかね?」
その日の夜、洋服を見たお父様は少し驚いたようでした。
「ええ、ばあやに誰のか聞いてみたんですけど、口止めされているみたいで」
「口止め、という訳では別にないのだがな……」
ことさらつんけんした言い方をしたつもりはなかったのですが、お父様にはそう聞こえたようでした。弁解するように口の中でつぶやきながら、お父様は手をのばして洋服を取り上げると、樟脳のにおいのする小さなシャツを広げて懐かしそうにしばらく見入っていましたが、やがて私に眼を向けました。
「これは、お前の兄のだよ」
「……?」
それがどういうことか、とっさに私は分かりませんでした。兄ってなんだったかしら、としばらく考え、ようやくその意味に思い至って仰天しました。
「でもお父様! 私は確か神社に捨てられて……」
「うむ、それは間違いない……だがな、お父様が見つけた時、お前は実はひとりではなかったのだ」
……それは、20年も前の2月のことです。
そのころ、奥様とお子様を相次いで亡くされていたお父様は、心痛のためか夜寝付くことができなくなっていました。
ある真夜中、つれづれなるままに近くの神社を散歩していたお父様は、赤ん坊が泣く声を聞きつけました。不審に思って境内に入ると、雪のちらつく中、赤ん坊を抱いてぽつねんとお社の段々に座っている異人の男の子を見つけたのでした。
「歳は7つか、8つか……多分、10にはなっていなかっただろうな。金髪の、女の子のようなきれいな顔をしていたが、外套も着ず帽子もかぶらず、寒さで真っ青になっていて……それでも、お前におおいかぶさるようにしてしっかりと抱きしめていたよ」
「…………」
あまりに意外な話を聞かされた私は、言葉も出せずにただ座っていることしかできませんでした。そんな私を見たお父様は、少し心配そうな顔になるとばあやを呼び、お茶を持ってこさせました。
「……驚かせて済まなかったな」
熱いお茶を飲み、ようやく人心地のついた私に、お父様はそう言いました。私はため息をつくと首をふり、お茶碗を茶托に戻しました。
「どうして秘密に? その、私に、兄上……がいたこと」
「秘密……という程のことでもなかったのだが……ついつい話しそびれてな」
お父様にしては、ずいぶんと歯切れの悪い答えでした。でも、なんとなく理由が分かったような気がして、私はうなずきました。
今、兄が家にいないということは、何かの事情があって私と引き離されたということでしょう。そしてもし、私がそれを知ったら──ご自分と、血のつながった兄とどちらに私が惹かれるか、多分、お父様はその懸念を捨てきれなかったのだと思います。
そして、そんなお父様を、私には責めることはできません。
「……名乃介、というのが名前なんですね?」
私はゆっくりと言いました。
「異人なのに、そんな名前だったんですか?」
「うむ、それがな」
膝に置いていた洋服を、お父様はそっと畳におろしました。
「口がきけないわけではなかったんだが、何も話さず名前も言わずでな。だからお前と一緒に名前をつけてやったのだ。仁科名乃介、とな」
「言葉が通じなかったのでは?」
「いや、英語が通じた」
「ふうん……お父様、英語なんておできになるんですの? 話しているところを聞いたことがありませんけど」
「お父様を甘く見るなよ。こう見えてもな、昔米国に行ったこともあるのだぞ」
「まあ、お見それしました」
ちょっと気分がほぐれて、私もお父様も笑いだしました。ひとしきり笑うと、お父様はひとつ息をついてしみじみとしたまなざしをしました。
「本当に、あれから随分時間がたったものだなあ……あの子もうちにおれば今頃軍人か役人か……きっと嫁のひとりも迎えている頃だろうに……」
……仁科の家に来てから2年ほどがたった日、兄は忽然と姿を消したそうです。
『これきり縁を切ります。ゆき乃をどうかお願いします』と書いた置き手紙を残して。
「八方手をつくして探したのだが、とうとう見つからずじまいだった。10かそこらの子が、どれほどの事情があってそんなことをしたのか……」
不憫なことだ。とお父様はつぶやき、お茶をすすりました。私はそんなお父様を見ながら、別のことを考えていました。
そういえば、かすかに覚えています。
私を抱き上げる、お父様とは違う小さな影、一生懸命帯を結んでくれる小さな手、私をおぶって歩く、不安定な小さな背中……。
それは、遊びに来た隼人さんか弥生ちゃんだとこれまで思っていました。けれど、もしかすると、他ならぬ兄の思い出だったのでしょうか。
私がそう言うと、お父様はうなずきました。
「名乃介はそれはお前を可愛がっていたよ。おむつもおもゆもお風呂も、教わり教わり皆自分でやっていた。なにしろ男の子のやることで下手くそだから、ばあやなどは見かねて手伝おうとするんだが、これは自分の妹だと言い張って絶対手を出させなんだでな。小憎らしがっていたよ、ばあやは」
「まあ」
負けず嫌いなばあやが、7つ8つの男の子を相手にむきになっている姿を想像して、私は可笑しくなりました。お父様はそんな私をしばらく眺めていましたが、やがて、「少し待っていなさい」と言い置いて立っていきました。
箪笥の引き出しを開けてなにやら探していたお父様は、程なく戻ってくると1枚の古い写真を差し出しました。赤子の私を抱いて立つまだ若いお父様と、その横にいる袴姿に明るい髪の異人の男の子……その男の子に、私は眼を引きつけられました。
「この子が……?」
「名乃介、お前の兄だよ」
「…………」
写真の男の子に、私は全く覚えがありませんでした。お父様の話によれば、別れたのは私が2歳になるかならないかの時でしたから、無理のないことかもしれませんが……でも、とても可愛がってくれたという兄のことをなにも思い出せない、そのことがなんだか私には悲しく感じられました。
「ゆき乃」
まるで私の思いを読んだように、お父様が口を開きました。
「その写真と服は、お前が持っていなさい。もしお前がこの先名乃介を探したいと思うなら、手がかりのひとつにはなるだろう」
「え……でも、お父様」
「気にすることはない。むしろ、悪いのはこんなに長い間黙っていたお父様のほうなのだから……身内を奪われるのがどんなにつらいものか、いちばんよく知っていたはずだったのにな……」
「…………」
その言葉には、私へのいたわりの他に、ご自分への深い思いがこめられているようでした。ですから、私はただ黙っていることしかできませんでした。
……やがて、お父様はさて、と言い、ふっきるように膝を軽く叩きました。
「すっかり遅くなってしまったな。お父様はこれからちょっと調べものをしなくてはならん。もう引き取りなさい」
「あ、はい……なにかお持ちしましょうか?」
「いや、いい……そうだ、今日、中牟田の義兄上に会ってな。来週若い連中を何人か呼ぶから、お前にももてなしの手伝いをしてもらえまいかと言っていた。どうだ、行くかね?」
「私は構いませんけど、それって弥生ちゃんのお婿選びでしょう? 私が行ってはお邪魔じゃないのかしら」
「なに、むしろお前が行ったほうが弥生もその気になるかもしれんということだよ」
「……ひどいわ、お父様も中牟田の伯父様も」
むくれてみせる私を見て、お父様はようやく顔をほころばせました。そして、さあもう行きなさいと優しく言って、静かに机に向かいました。私はそんなお父様の背中にひとつお辞儀をすると、写真と洋服を抱いて部屋をそっと後にしました。
床に入る前、私はもういちど兄の写真を見てみました。
もう20年もたつのですから、今頃は立派な大人になっているはずです。丁度隼人さんや透尋さんと同じくらいの年頃ですから、もしかすると男同士3人、事あるごとにはりあったり助け合ったりしながら愉快にやっていたかもしれません。
どこでどうしているのかしら、と、小さな兄の姿を眺めながら、私は思いを馳せました。
そして、どこにいても、私と同じくらい幸せであってくれるよう、願わずにはいられませんでした。
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