文月---今生の絆

「笠荻……笠荻!」
「なんじゃ?」
蔵の前で私が呼ぶと、いつものとおり笠荻がひょっこり現れました。まぶしげに眼をしばたたかせながら見上げる毛むくじゃらの物の怪に、私は首根っこをぶら下げた笠荻の子供だか孫だかをつきつけました。
「台所に入り込んでいたわ。荒らしたら追い出すとあれほど言ったでしょう」
「おお、すまんの。厳しく言ってはおるのだが、なにぶん子供のことでなあ……これで勘弁してはもらえぬかな」
私の手から小さな物の怪を抱き降ろした笠荻は、もそもそと懐を探ると紅玉をひとつ差し出します。何度断ったら分かるのかしら、と思いながら、私はため息をついて首をふりました。
「いりません。大体、天草はもういないのよ。いつまでもこんな狭い蔵にぎゅう詰めになっていないで、そろそろ外に出たらどう?」
「いやそれが、思いの外ここの居心地が良くてなあ」
紅玉を懐に戻しながら、笠荻はのほほんと言いました。
「わしらはもともと土の中に住むじゃから、狭いのは気にならぬでな。お前様も主様も欲がないので気楽だし、このままずっと住まわせてもらいたいのじゃが」
欲がないんじゃなくて、物の怪の出す物などあやしくて受け取れないだけよ、と私は思いました。彼らの贈り物は人の贈り物と違います。うっかり受けたらどんな縛りを受けるか分かったものではありません。
「居たいなら居たいで、子供のしつけはちゃんとして頂戴。今度やったら折檻よ。仁科ゆき乃に二言はありませんからね」
このおどかしはさすがに効いたようでした。なんだかんだ言っても、私が何者であるのか、多分この物の怪は察しているのでしょう。もにょもにょと口の中でつぶやきながら何度もうなずく笠荻に、私はもういちど念を押すと戻ろうとしました。
と、その時、ぱたぱたと足音がしたかと思うとばあやが顔をのぞかせ、安堵したように息をつきました。そして、笠荻を見ると露骨に顔をしかめました。
「お嬢様、こんなところで何してらっしゃるんですか。広瀬様がお見えですよ」
「まあ、もうそんな時分になるの?」
「そうですよ。まったく、急に見えなくおなりになるからどちらへ行ったかと思ったじゃありませんか。早くお支度なさいまし」
今日は広瀬中尉と新居を見にいくことになっています。そういえば、台所で物の怪を見つけたのも、お化粧に使う水を取りに来てのことだったのでした。そんなに長い間ごたごたしていた気はしなかったのですが、いつの間にか時間がたってしまったようです。
「ヒロセ、ヒロセとは誰じゃ?」
ことさらばあやが無視しているのに気がつかない笠荻は、ひょこひょことばあやのそばに寄っていくと、無邪気にその裾を引きました。
「のう、ばあや、ヒロセとは誰じゃ?」
「……誰がばあやですか。物の怪風情にばあや呼ばわりされたかありませんよ。あっちへお行き! しっ!」
「じゃども知りたいのじゃ。教えてくれぬか、のう。頼むからのう、のう」
「……ばあや、教えてあげたら? 別に減るものでもないでしょう」
「そりゃ減るもんじゃございませんけどね。物の怪が知るようなことでもございませんよ」
「そんなことはないぞ。物の怪だって知りたいものは知りたいのじゃ。お願いじゃばあや、教えてたもれ、のう」
「…………」
笠荻を追い立てたっきり知らんぷりを決め込もうとしていたばあやも、笠荻があまりしつこく繰り返すのでとうとう根負けしたようでした。ひとつため息をつくと、嫌な顔でじろりと小さな物の怪を見おろしました。
「まったく、本当にうるさいったらこの物の怪は……広瀬様はね、お嬢様の許婚ですよ」
「イイナヅケ?」
笠荻は眼をぱちくりさせました。
「イイナヅケとは何じゃ?」
「お嬢様が嫁ぐかたですよ。言っときますけど、いたずらなんぞしたらただじゃおきませんからね」
「何と! ではお前様のつれあいになる者か!」
その瞬間、笠荻の眼が輝いたのを見て、私はいやな予感がしました。
「待って笠荻、なにをするつもり?」
「ぜひ挨拶に行かなくては! 厄介になっている身で礼を欠くわけにはいかぬ」
「いりません! ばあや、止めて!」
止める間もあらばこそ、風のようにばあやの脇を駆け抜けていった笠荻を私はあわてて追いかけました。が、物の怪の脚にかなうわけがありません。
庭のほうからのうわっという悲鳴、続いて起こったドタンという音に、顔から血の気が引くのが自分でもはっきりと分かりました。
「本当にごめんなさい……」
平身低頭してあやまる私に、広瀬中尉は──無理もありませんが──ただ困ったような苦笑いをするだけでした。片肌を脱いだその肩は青黒く腫れ上がり、そこに多津が慎重な手つきで湿布をしています。
一方、笠荻はといえば、かんかんになったばあやに耳を引っ張られて、きゅうきゅう騒ぎながら連れていかれてしまいました。多分、今頃みっちりとお灸を据えられているのではないでしょうか。
広瀬中尉と笠荻は、座敷の縁側で鉢合わせをしたそうです。庭へ下りようとしていた中尉がいきなり飛び出してきた笠荻に驚いたところへ、何かにつまづいた笠荻が中尉の脚に飛びついてしまい、そのままふたりはもろともに庭に転げ落ちたのでした。柔道の心得があった中尉はとっさに受け身をとったものの、沓脱石に肩をしたたかに打ちつけていました。幸い骨や筋は痛めていないようですが……お仕事に障りが出ないか心配です。
「大丈夫ですよ、気にせんでください」
手当の終わった中尉が、シャツに袖を通しながらそう言いました。
「ま、二、三日は痛むでしょうが、こんなのは怪我のうちに入りませんよ。海兵の棒倒しを見たことがあるでしょう?」
「ええ、でも……」
確かに、あのすさまじさに比べれば、縁側から落ちるくらい何でもないことなのかもしれませんが……。
それでも私の気持ちが晴れないと見たのか、中尉は話の種でも探すように、ばあやと笠荻が去った方にちらりと眼を向けました。そして少し考える風でしたが、思いきったように口を開きました。
「ゆき乃さん、さっきのあの……」
「あ、はい?」
「あの動物……あれは……もしや物の怪という奴ですか?」
私は少し驚きました。中尉がご自分から物の怪の話をするのは初めてだったからです。
「ええ……そうだと思います」
「何という物の怪なんです?」
「さあ……」
そういえば、ひとりひとりに名前はあるようですが、笠荻たちが一体どういう類の物の怪なのか、聞いたことはありませんでした。私がそう答えると、中尉は不思議そうな顔をしました。
「それじゃあ困るんじゃありませんか? なんて呼べばいいのか分からないとは」
「そうですね、ちょっと困りますけれど……でもたとえば、私たちは猫を猫と言いますけど、猫のほうは、タマとかミケとか呼ばれた時はともかく、猫と呼ばれても返事はしませんよね。それと同じで、ああいうものたちは、自分たちがなんという生き物かということをあまり気にしないみたいなんです」
それに、そういう名前は大体人がつけたものです。猫と違って物の怪など、万人が見ることができる訳ではありませんから、ろくろ首とか鬼とか、人口に膾炙したものならともかく、そうでもないものにつく名前はないのでしょう。
「しかし、俺にははっきりと見えましたが」
「それは、あれが中尉に見られることを嫌っていなかったんだと思います。ああ見えても、自分が嫌だと思う相手には絶対姿を見せることはありませんもの」
なにしろ、私の許婚だと聞いた途端、眼を輝かせて飛び出していったくらいですし。
「成程……俺はまた、黄泉に行ったせいでそういう力がついたのかと思いましたよ」
広瀬中尉は笑いました。が、ふと、その口調の中のなにかが私の心にひっかかりました。
おかしい、という程ではありませんし、もともと軽い話のつもりで始めたおしゃべりです。ですから、聞き流しても良かったのでしょうが……。
「あの……」
かなり迷ってから、私は思いきって尋ねました。
「お気を悪くされたらごめんなさい。あの……何か変わったことでもありまして? その……こちらに戻ってからですけれど」
「いや、別にありませんよ」
露西亜でついた癖なのでしょうか。まるで西洋人のような仕草で中尉は肩をすくめました。
「全く、なさすぎてつまらんくらいです。黄泉で死んで生き返るなんて、そうそうできることじゃないですからね」
「…………」
その言葉は、常にくらべていささかそっけなさすぎるような──ご自分のことなのに、まるで他人の話でもしているかのような──気がしました。それと同時に、黄泉、という言葉をどこか無理に押し出しているようなその感じが、今度ははっきりと分かりました。
それが何故かと考える間もなく、私はその理由に思い当たりました。そして同時に、やはり聞きのがしておくのだったと後悔しました。
……このかたはまだ、あの時の傷を癒やせないでいるのです。
こうやって何でもないようにふるまってはいますが、中尉にとって、黄泉で過ごしたいっときは、恐ろしいという言葉でも足りないようなものだったはずです。私ですら今でも夢に見るくらいですから、ただ人の身であんなことになった中尉の心は、さぞ深い傷を負ったことでしょう。実際、こちらに戻ってからしばらくの間、中尉は随分と神経質な様子でした。
しかも、ことがことだけに、人に話して鬱憤を晴らすという訳にもいきません。あれだけの出来事の後でも、人はまだ、自分が知らない世界についてはかたくなです。仮にも海軍将校の身で黄泉だの前世だのクシナダヒメだのと言いだせば、下手をしたら頭がおかしいのだと思われ、出世の道も閉ざされてしまいかねません。
勿論、私でしたら全てを知っていますし、中尉のお話を聞くこともできます。が、私が責任を感じてしまうと思っているのか、それとも、殿方として、ご自分の悩みなど打ち明けるのはためらわれるのか、黄泉でのことについて、中尉はほとんど触れません。ただ時折、こうやって冗談のようにしてぽつりと口にするだけです。
多分、中尉は今、ひとりで我慢をしているのだと思います。
それがどのくらい苦しいものか、きっと余人には分からないことでしょう。起きたことを吐き出して思い出にしていのが、傷を癒やすためには必要なことなのに、中尉にはそれすらままならないのですから。じっと胸の底に押さえつけて、自然に小さくなっていくのを待つしかないのです。何年、何十年かかるかも分からないまま。
……もし、私がこのかたを望まなければ……。
お前がそういう風に生まれたのは、別にお前のせいではないのだよ、と、お父様は良く言います。それは確かにそうなのかもしれません。私とて好きでこう生まれついた訳ではないのですし。
でも……私が持っているものが、こうやって近しい人をも苦しめてしまうという事実を目の当たりにする度に、私はいつもいたたまれないような気持ちになるのです。
「……まあまあ、本当に申し訳ございませんでした」
丁度その時、ばあやが座敷に姿を現したので、私は心底ほっとしました。
「折角おこしいただいたのに、こんな無礼をしでかしまして、何とお詫びをしたら良いのやら……」
どうやら思う存分笠荻を叱りとばしたらしいばあやは、多津を目顔で去らせると、畳に座って中尉に深々と頭を下げました。大丈夫です、と中尉は笑って答え、痛めたほうの肩をちょっと回してみせました。
「ゆき乃さんにも話しましたが、海兵の棒倒しに比べればこんなのは物の数じゃありません」
「左様ですか。ですけど、今日はあまりお動きにならないほうが……お家を見に行くのはまたになさってはいかがですか?」
「いや、まだ日も高いし、ゆき乃さんが良ければ今からでも行こうかと思いますが」
「じゃ、急いで支度をしてきますね。少しだけお待ちくださいな」
私はそう言って中尉に笑いかけると、返事をする間も与えずに立ち上がり、座敷を後にしました。
いささか失礼な気もしないでもありませんでしたし、何故自分がこんなことをしてしまったのか分かりませんでしたが……もしかすると、支度を口実に、中尉の前から逃げたかったのかもしれません。
まだ初夏だというのに、今年は一段と日の光が強いような気がします。門を出て日傘を広げると、それを眼に止めた中尉がおやと小さくつぶやきました。
「その日傘は……」
「ええ、露西亜の。中尉が送ってくださったものです」
やっぱり嬉しいのでしょう。中尉は顔をほころばせました。
「似合いますよ、俺が言うのも何だが」
「中牟田の従姉がいつも感心してましてよ。中尉は女性向けのものをお選びになるのが上手だって」
「いや、実は……下宿先の娘に手伝ってもらっていたんです。あなたの写真を見せたら、随分と気に入ったようで、何かにつけて相談に乗ってくれて……勿論、彼女にはちゃんと相愛の恋人がありましたから、安心してください」
「……安心だなんて……いやだわ、私、そんな顔をしてました?」
「少し」
「……なんだか楽しそうですわね」
「そんなことはないですよ。ただ……」
「?」
「俺も安心しました。何しろ、三年間ですから」
ひとりごとのような中尉の言葉に、私ははっとしました。
三年……人の心が変わるには、充分な月日です。
「実は、何度か後悔しましたよ。せめて仮祝言だけでも挙げておくんだったとね」
「まあ、でも、私……」
「そうですね。きっとうんとは言わなかったでしょう、ゆき乃さんは」
「…………」
冗談めかして言う中尉の眼を、私はまともに見ることができませんでした。日傘の陰に隠れるようにして、私は小さくうなずきました。
自分の持つ、人にはない異能の力……霊を見、妖を呼ぶこの力を中尉に知られることを、つい最近まで私は何より恐れていました。いえ、知られることそのものより、それを知った中尉が私のことをどう思うかという、そのことが恐かったのです。縁談になかなかお返事をしなかったのも、婚約のままで露西亜へ中尉を見送ったのも、それが理由でした。
でも、私のその態度が、逆に中尉に心細い思いをさせていたことには、うかつにも思い至りませんでした。
「私……ご迷惑をかけてばかりですね」
しばらく言葉を探した挙げ句、ようやく言えたのはこれだけでした。
日傘越しに、中尉がこちらを見おろしているのが感じられました。と、行きましょうと声が聞こえ、中尉は歩き出しました。私は黙ったまま、その後に続きました。
「……ゆき乃さん、これだけは言っておきたいんですが」
しばらくして、唐突に中尉が言いました。
「……はい」
「そうやってゆき乃さんが気に病んでしまうことが、俺には何よりこたえるんです」
「……え?」
その言葉の意味が、私には良く分かりませんでした。首をかしげた私を中尉は無表情にちらりと見、少し足を速めました。
「ゆき乃さんが普通の人と違うということは、俺も承知しているんです。承知の上で妻にするんですから、そのせいで俺が困ったとしてもいちいち気に病むことはありませんよ」
「気に病んでなどは……ただ、私、いつも中尉のご好意に甘えるばかりで……」
「それを気に病むと言うんです」
「…………」
言われてみればその通りです。返す言葉がありません。
「確かに俺はお父上や中牟田や、三島大尉のように、あなたの事を良く分かっている訳じゃありません。きっと、同じようにしてあげることもできないでしょう……けれど、あなたと俺はこれから一緒にやっていくんでしょう? 俺に何かある度に、そうやって小さくなって謝り続けるつもりですか?」
そんなの俺の立つ瀬がありませんよ、と、常になくいらだたしげに語を継ぐ中尉を、私はただ、ぽかんとして見上げるしかありませんでした。
そして、どうやら怒られているらしいというのに気がついた時、嬉しいような不安なような意外なような、何とも奇妙な気分が突然湧き上がってきたのでした。
「私……私……」
自分でも何を言いたいのか分からないまま、私は口を開きました。
「だって……中尉、中尉こそ平気なんですか?」
「何がです?」
「何がって……ご覧になったでしょう? 物の怪や妖や、そんなものが私にとっては普通なんですよ? 私自身だってこんな……分かるんです、私、絶対ただの異人の子なんかじゃありません。鬼か狐か、もっと恐ろしいものなのか……」
「人に見えますよ、俺にはね」
私の言葉を、そっけなく中尉は遮りました。
「それで充分じゃありませんか。何か問題がありますか?」
「そういう意味じゃありません!」
「じゃあどういう意味なんです?」
中尉はぴたりと足を止め、今度ははっきりと恐い顔で振り向きました。
「俺は承知していると言っているでしょう。なにをそんなにこだわっているんです。夫になる男を信じられないんですか?」
「違います! 信じられないなんてそんな……そんなのじゃありません!」
むしろ、誰より信じているかただからこそ。
またひどい目に遭わせてしまうのが、それに中尉が耐えられなくなってしまうことが。
そして、私から遠ざかってしまうことが、私は恐くてたまらないのです。
「…………」
この時、一体私はどんな顔をしていたんでしょうか。しばし中尉は私の顔を眺めていましたが、何か思い至ったのかふと問いかけてきました。
「もしかして……これまでにもそういうことがあったんですか?」
その力が誰かに災いをもたらしたのか……遠回しにそう尋ねられているのだと分かって、私は思わず身を固くしました。
ない、と答えれば嘘になります。でも、あると言ったら……。
中尉はどう思うでしょうか。どんな風にと聞くでしょうか。
聞かれたら、私は何と言えば良いのでしょう。
「…………」
答えることができないまま、私は黙ってしまいました。広瀬中尉はそれでもしばらく返事を待つ風でしたが、やがて「そうですか」とだけ短く言い、そのまま口を閉ざしました。
そして数歩歩いてから、不意にまた立ち止まりました。
「……少なくとも、俺にとってはあなたを嫌う理由にはなりませんね」
私は思わず中尉の顔を見上げました。中尉はもう、怒っているようには見えませんでした。
「……本当に?」
「まだ疑うんですか?」
「いえ……」
……そういえば、このかたは黄泉まで私を追ってきてくれたのでした。私を助けるどころか、ご自分が帰ることができる望みすらほとんどないようなところに、全てを知った上で敢然と飛び込んできてくれたのです。もし私を忌み嫌うような人ならば、そんなことは決してしてくれないでしょう。
私が自分自身を恥じないということが、そんな中尉の想いに応えることになるなら、そうしようと私は思いました。中尉の言うとおり、これから共に過ごしてゆくのですから。
「……ありがとうございます」
「別に礼を言われるほどのことじゃありませんよ」
頭を下げる私に、中尉はほんの少し照れ臭そうに返すとまた歩き始めました。
今度は、どこかゆったりとした歩みでした。
新しい家は、今の家から歩いて行けるところにあります。留守にしがちな海軍士官ですから、実家と近いほうが何かと安心だろうとの中尉の気遣いです。
あらかじめ話がしてあったのか、大家さんを訪ねると、いかにもご隠居といった風情のお爺さんが出てきて、すぐに私たちを案内してくれました。そして、ぐるりと中を見せた後、気を利かせたつもりなのか「じゃあごゆっくり」と言い残してさっさと戻っていってしまいました。
「どうですか? ちょっと狭いんですが」
「でも、台所は感じがいいし、お庭はあるし、気に入りました。それにお風呂まで」
「銭湯は不慣れだと思ったので」
不慣れどころか行ったこともありませんでしたから、中尉の心配りはとても嬉しく思えました。
「はい、助かります」
「そうですか、それは良かった」
ひとつうなずいた中尉は、これでひと仕事済んだとばかりにのびをしようとして、肩が痛んだか顔をしかめました。そして、ちょっと決まり悪げな笑みを私に向けると、おもむろに上着を脱いで畳に置き、そのまま庭に向かって脚を伸ばして座りました。すでに自分の家でくつろいでいるかのようなそのふるまいに、ちょっと可笑しいような気持ちになりながら、私もそばに座って上着を取り上げ、丁寧に畳みました。
日差しはまだ真昼のものですが、木の影はそろそろ長くなり始めているようです。学校が終わったのでしょう。蝉の音に混じって、どこからか、子供達が遊ぶ声がかすかに聞こえてきます。
これから幾度、こうやってふたりで庭を眺める午後がやってくることでしょう。
「……ゆき乃さん、つまらんことを聞いていいですか?」
ふと、広瀬中尉が口を開きました。
「はい、何でしょう?」
「もし俺が先に黄泉に行ったら、あなたは俺のところへ来てくれるでしょうか?」
私は思わず中尉の横顔を見つめました。中尉は庭に眼を向けたまま、こちらを見ようとしませんでした。
黄泉の傷、と私は思いました。そして、また小さくなりそうな自分の気持ちを奮い立たせました。
気に病まないこと、引け目を感じないこと。中尉が望んでいるのはそれなのです。
「当たり前じゃありませんか」
私はきっぱりと答えました。
「クシナダのことを心配なさっているなら、それはご無用です。今生で追うべきかたがどなたか、もう分かっておりますもの」
「……そうですか」
「中尉こそ、私が行く前にさっさと転生などしたら承知いたしませんから。ご心配でしたら、ちゃんと待っていてくださいましね」
この言葉に中尉は苦笑いをし、うなずきました。
「分かりました……ゆき乃さん」
「はい?」
「健夫でいいです」
「……はい」
うつむくと、畳に置かれた中尉の手が見えました。私はしばらく迷ってから、そっと自分の手を上に重ねてみました。はしたないことをしているとどきどきしましたが、中尉は驚く風もなく、その手を握ってくれました。
……輪廻というのは、残酷なものです。
今こうやっている私と中尉も、次の生ではお互いのことなど忘れてしまうのです。そして、また新たな誰かと絆を作り、それを守っていこうとすることでしょう。
もしかすると、私のように前の生を思い出すこともあるのかもしれません。でも、それでも、人は前の生より今の生を、前世の絆より今生の絆を選ぶことでしょう……丁度、私が中尉を選び、クシナダとスサノオを断ち切ったように。
どうせ消えてしまうものならば、この世の人と人の絆には何の意味があるものなのか……私は時々考えます。そして、その答えを見つけることはまだできません。もしかすると、見つけることなどできないのかもしれません。
でも、今、こうやって私たちは共にあります。
それはとても、大切なことだと私は思うのです。
・広瀬(旧姓仁科)ゆき乃
夫との間に4男4女(うち三男は事故死)。結婚後も幾度かの中断を挟みながらラヂオの仕事は続けていたが、夫の定年を機に引退。さらに夫の死後はひとり田舎に引っ込み、淡々と暮らした。
・広瀬健夫
海軍少将で定年。その後、妻の知名度を当て込んで議員出馬の話が持ち込まれるが頑として固辞。子、孫、ひ孫に囲まれて穏やかに過ごす。
・仁科政信
陸軍中将で定年。その後は孤児を対象とした慈善事業に力を入れ、自身も5人の孤児の保護者となっていた。
・岡田喜和
その後も仁科家に勤め続けていたが、寄る年波には勝てず、晩年前の数年はもっぱらゆき乃の子供たちの子守役として過ごした。子供たちを実の孫のように可愛がり、子供たちからも慕われた。
・金江多津
3年後、政信の将棋仲間だった貿易商に見初められ結婚。仁科家を離れる。その後、夫について米国に渡った。
・中牟田弥生
2年後、海軍士官秋山真行と結婚。自身も看護婦を続けつつ1男1女を育て上げた。後に看護学校校長として看護教育の分野で活躍。
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 田代 二三/OMC
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