ゆき乃の手記 弐

弥生---鎮守の桜


 横須賀鎮守府には、桜並木があります。
 もちろん、普段は軍関係者以外は立ち入り禁止ですが、年に1回、桜の咲く時だけは普通の人が入って「お花見」をすることが許されます。私も弥生ちゃんや隼人さんと一緒に、中牟田のおじさまに連れられて何度か来たことがあります。
 今年はお花見はないみたい……そう教えてくれたのは弥生ちゃんでした。なんでも『扶桑』が爆発してしまったので、取りやめになったようです。
「……弥生ちゃん?」
 桜の木の下にぽつねんとたたずんでいる弥生ちゃんを見つけて、私は声をかけました。が、弥生ちゃんは気付かずただ桜を眺めています。
「……だーれだ」
「きゃっ?!」
 後ろから近づいて目隠しすると、弥生ちゃんは悲鳴をあげました。振り返って私だと分かると今度は笑い出します。
「まあゆき乃、おどかさないでちょうだいな」
「ご挨拶ね、呼んでも全然気がつかなかったくせに」
 わざとすねて私は言い、なにしてるの、と尋ねました。弥生ちゃんはちょっと悲しそうに微笑んで首をふりました。
「なんでもないの。ただ桜を見ていただけ」
「ふうん」
 正直言うと、私はあんまり桜が好きではありません。あやかしや死霊やそんなものが憑いてることが多いからです。でもここの桜からはそんな気配はありませんでした。やっぱり、近代化の最たる鎮守府の桜だからでしょうか。
 そんなことをつらつら考えながら白い花を眺めていると、急に弥生ちゃんがぽつりと言いました。
「今年の桜は寂しいわね」
「……なんで?」
「見てもらえる人が少なくて」
「きっと来年にはまたお花見ができるようになってよ。そうしたらまたおじさまや隼人さんと一緒に来ましょう。あ、うちのお父様も」
 私は元気づけたつもりでした。が、それを聞いた弥生ちゃんの顔がますます悲しそうになっていくのを見て、しまったと思いました。
「……そういえばゆき乃、お仕事はもう終わったの?」
 気まずくなった雰囲気を気にしたのか、ことさら弥生ちゃんは明るい声で言いました。私は胸の奥が痛むのをこらえながら答えました。
「ええ、包帯のお洗濯も器具洗いも全部済ませたわ。仕事が速いって婦長さんが驚いてらしたのよ」
「ゆき乃は得意だものね、そういうこと」
 私が鎮守府に割と自由に出入りができるのには、ちゃんとした理由があります。実は、看護婦団の細々した雑用……包帯や器具を洗ったり、病室の掃除をしたり、足りない物があれば買い出しにいったり……をさせてもらえるよう、団長の婦長さんにお願いしたんです。最初は渋っていた婦長さんでしたが、弥生ちゃんの口添えがあったことと『扶桑』の爆発でけが人が出て急に忙しくなったことから認められたのでした。
 ちなみに「看護婦」ではないので白衣は着れません。もっともきゅうくつな洋服は苦手なので、これは幸いですけれど。
「弥生ちゃんも今は忙しくないみたいね」
「ええ、やっと……本当に、こんなむごいことが起こるなんてどうしてかしら」
「そうね」
 気丈な弥生ちゃんが身震いするのを見て、『扶桑』の爆発がどのくらいひどいものだったかを改めて実感し、そして、そんな人たちを手当てした弥生ちゃんに同情したんですが……次の言葉に私ははっとして向き直りました。
「もしかしたら……『畝傍』も、あんな風に……」
「弥生ちゃん!」
 自分でもびっくりするほど大きな声でした、弥生ちゃんも驚いて私を見つめました。
「そんなこと言っちゃ駄目よ、弥生ちゃん!」
『畝傍』の行方はいまだに分かりません。軍のほうでは、そろそろあきらめて捜索を打ち切るという話も出ていると聞きます。でも……軍としてはそうせざるを得なくても、私たちまであきらめてしまっていいという法はありません。確実に絶望的ならともかく、隼人さんも、琉さんも、まだそうではないんですから。
「…………」
 私がそう言うと、弥生ちゃんはしばらくじっと考えました、そして、こくりとうなずきました。
「そうね……あきらめてしまったら、兄さんが帰ってきたときに会わせる顔がないものね」
「ええ、そうよ」
 私もうなずいて弥生ちゃんの手をぎゅっと握りました。弥生ちゃんの後ろ、桜の間に港の海がかいま見えます。ついこの間まで灰色をしていた海も、すっかり柔らかい春の色になりました。こういう海を見ていると、地上でいろいろやっかいなことが起こっているのが嘘みたいです。
 多分、『畝傍』はこのどこかにいるんでしょう。そして、帰ってくる方法を探しているに違いありません。
「あら……ゆき乃」
 いきなり弥生ちゃんがひじをつつき、こっそり後ろを指さしました。私は振り返り、なによと言いかけてちょっとどきりとしました。少し離れた辻を広瀬中尉が部下らしき人となにやら話しながら横切っていたからです。
 広瀬中尉は私の縁談の相手です。海外に行ったことのある海軍の士官なら、異人にもそこそこ慣れているだろうし良かろうという、聞きようによってはどちらにも失礼な理由から持ち込まれたものですが、将来有望で気質も良く、なによりこういう見かけの私をいやがらないということで、お父様はかなり気に入ってらっしゃるようです。私は……なにしろ一生ごとですから、もう少しきちんと考えてみたいと言って返事は待っていただいています。
 もちろん、弥生ちゃんのことがありますから私だけこんな話を受けるわけにはいかないというのもありますが……異人ということを差し引いても、私は普通の人とは違っています。広瀬中尉はいいかたですけど、私のそんな部分を知ってもいいかたでいてくれるかどうかは分かりません。一生隠し通せれば良いですが、隠せなくなったときにどうなるか、それを考えると怖くて、私はお返事できないでいるというのが正直なところです。
「声をかけてさしあげたら?」
「いやよ、恥ずかしい」
 どう見てもお仕事の最中、しかもおひとりならともかく、他の人もいるのに用もなく話しかけたりなどできるわけがありません。お父様も「男の仕事中に話しかけてはいけない」と日頃からおっしゃっています。
「じゃあ、私が呼んであげましょうか?」
「……私が困るのを見て面白がってるでしょ、弥生ちゃん」
 そんなこんなでひそひそやっているうちに、ふと顔を上げた中尉がこちらに向けて小さく会釈しました。あら知り合いでもいるのかしらと私はあたりを見回し……私にしていたのだというのにやっと気付いてあわてて頭を下げました。
「君が袖振る」
「違うってば。誰か他の人に挨拶したと思ったのよ」
 額田王を持ち出してからかう弥生ちゃんに言い返しながらも、私は顔が火照るのを押さえられませんでした。
「……弥生ちゃん」
「なあに?」
「私たち、普通の娘だったら良かったわねえ」
「なにを言い出すの、やぶからぼうに」
 弥生ちゃんは笑いましたが、途中でふとため息をつきました。そして桜を見つめて「本当に」とつぶやきました。

「中牟田弥生の従妹」「広瀬健夫中尉の縁談の相手」というDRSで書いてみました。しかし、乙女心というのは表現するのが難しいですな、ああ恥ずかしい(笑)。
 弥生が言っている「君が袖振る」というのは、万葉集にある額田王が中大兄皇子に贈った(と思う。なにしろ習ったのが中学校の頃なんでこのへんあいまいです)『茜さす紫野ゆきしめ野ゆき野守は見ずや君が袖ふる』からの引用です。要するに「あなたが袖を振っている(古代の愛情表現)のを役人に見られたりはしないでしょうか」というような感じですか。弥生がなんでこんなこと言い出したかは推して知るべし(笑)。
 鎮守府のお花見については、横須賀育ちの祖母(わたしもですが)から聞いた話を元ネタにしました。もっともこれは昭和に入ってからのことで、明治もそうだったかは定かではありません。
 ちなみに、桜並木そのものは現在も海浜公園として残っています。