卯月---驟雨

「この世に物の怪などというものがいると思いますか?」
「はい」
あまりあっさり私がうなずいたものだから、広瀬中尉はなんだか困ったような顔になりました。
午後も半ばというこの時間、横須賀線の2等車にいるのは、私と広瀬中尉以外には、そこそこ裕福そうな老夫妻にあだっぽい感じの女の人、役所勤めかなにかとおぼしき洋装の男性など5,6人くらいでしょうか。しかもみんな私たちからは離れた席に座っているので、こちらの話は聞こえません。
弥生ちゃんに身の回りのものを届けに来た帰りに、軍令部に出向くところだという中尉にばったり会ったのは、横須賀駅のホームでのことです。『輝夜』に現れた艦隊のこともあって、最近異人に対するまわりの目はあまり良くありません。海軍の将校が異人と親しげにしているところなど見られればなにを言われるかわかりませんから、離れていたほうがいいですよと私は申し上げたんですが、別にお互いやましいことをしているわけでなしかまうことはありませんと中尉はおっしゃって、一緒に列車に乗り込むと私の前に腰をおろしてしまわれたのでした。
……普段のてきぱきした様子に似合わない広瀬中尉の困り顔に、私は思わず笑ってしまいました。そして、自分にとっては物の怪は実際に見えるものだと言おうとしてふと思いとどまり、口をつぐみました。
『照らされざるもの』の存在が明らかになってから、故ないことで他人を疑う人が増えています。少しでも人と違うところを見せると、即『照らされざるもの』と決めつけられて追い出されたり、ひどい時には殺されてしまうかもしれません。もちろん、広瀬中尉がそんなことをする人だとは思っていませんが……それで逆にご迷惑をかけてしまうということもあります。
「……世の中には、私たちが見たこともない生き物もいると思いますから」
考えた末、ひねり出した説明がこれでした。
「つまり、『物の怪』とは我々が知らない新種の生物かなにかだと?」
「ええ」
「……成程、それは考えたことがなかったな」
ここ最近、異国の科学者たちが続々とやってきては『日本固有の新種の生物』というものを見つけています。中には、そんなの昔からいたではないかと思うようなものも多々あるんですが、なにしろ鎖国のせいで異人たちはほとんど日本のことについて知りませんから、とにかく珍しくて仕方ないようで、異国の科学界は今ちょっとした騒ぎだそうです。そんな折でしたから、中尉は私の言うことにもすぐに合点がいったようでした。どうやらとりつくろうことができて私はほっとしましたが、同時に、こんな風にして自分のことを隠さなくてはならないというのが少し悲しくなりました。
いつか、すべてを広瀬中尉にお話しできる時はくるんでしょうか。
「……そういえば、中尉……」
「なんですか?」
遠慮がちに私が切り出すと、なにやら考えにふけっていたらしい中尉は我に返って小首をかしげました。
「そのぅ、縁談のことですけど……もう少しだけお時間をいただけませんか? ずるずるとお返事を引き延ばして申し訳ないんですけれども……」
「いいですよ。実は俺のほうからもお願いしようと思ってたんです」
「……えっ?」
あっさりうなずく広瀬中尉に、私は不安になりました。まさか、私が普通でないというのに気付いたのかしら。いえそんなことはないはずと頭に浮かんだ疑問を一瞬でうち消し、平静を装って中尉の次の言葉を待ちました。
ですが、その言葉は、私が想像だにしていなかったものでした。
「この先『輝夜』と日本は戦争になるかもしれません。もし話を進めた後で俺が戦死などしたら、ゆき乃さん、あなたに気の毒だ。本当は白紙に戻したほうがいいんでしょうが、それはそれでご迷惑をかけることになるし、ここはひとまず待っていただくということにしたいんです」
「…………」
私はどういう顔をしたらいいのか分かりませんでした。
縁談を進めないでおきたいというのは別になんともありません。お互いが同じように考えているのですから、かえって都合が良いともいえます。私が……私がおののいたのは、広瀬中尉が戦死するというそのことについてでした。
軍人さんですから、そういうことがあるかもしれないというのは知っています。でも、すでに琉さんと隼人さんが姿を消しているというのに、この上広瀬中尉までいなくなってしまうなんて……。
私は胸がしめつけられるような気がしました。そして同時に、広瀬中尉が少しにくらしくなりました。もちろん、私のためを思ってのことであるのは分かっているんですが、だからといって、そんなことを平然と、なんでもないかのようにおっしゃるなんてあんまりです。
「わ……私が、ゆき乃がいるから戦死などできないとは、おっしゃっていただけないんですか?」
……中尉のびっくりした顔を見て、私は自分がなにを口走ってしまったのかに気付きました。そうなるともう恥ずかしくていてもたってもいられません。丁度列車が止まったのを幸い、「失礼します」とだけ言って席を立つと逃げるように飛び出してしまいました。
降りてから、そこがまだ横浜駅だったのに気付きましたが、今更乗り直すわけにもいかずに私は改札に向かいました。そして、物珍しげな視線がいつもより突き刺さるように感じながら、暗くなるまで私は横浜の街を歩き回っていたのでした。
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