ゆき乃の手記 五

水無月---戦の影


「……お嬢様、帰っていらしたようですよ」
「そうね」
 玄関が開く音とサーベルが触れあう音に、私とばあやはどちらからともなく立ち上がりました。ばあやは食事の支度をしに台所へ引っ込み、私はお父様を出迎えるために玄関へ出ていきます。
「お帰りなさい、お父様」
「ただいま」
 玄関にいたのはお父様だけではありませんでした。後ろには若い少尉さんがひとり、しゃっちょこばって立っています。お父様がこうやって部下を招くのは珍しいことではありませんから、私は笑って会釈しました。
「志津田少尉だ……志津田君、これは娘のゆき乃」
 そっけない紹介でしたが、まだ陸士を出たばかりらしい志津田少尉は、私に向かってぴしりと型通りの敬礼をしました。
「志津田実です。仁科大佐にはお世話になっております」
「……大佐?」
 お父様の階級は中佐のはずです。志津田少尉が緊張のあまり言い間違えたのかしらと思ってお父様のほうを見やると、お父様はなんとなく照れたように眼だけで笑いました。
「今日、辞令が出た」
「……おめでとうございます!」
 お父様が周囲の評価に比べると昇進が遅いのを私は知っていましたし、その理由も……さすがに私の前で口に出す人はいませんでしたが……薄々察していました。ですからもしかすると、この昇進はお父様ご自身よりも私のほうがうれしかったかもしれません。
「今日は無理だけど、明日はお祝いのご馳走にしますね。源太に言ってお父様のお好きなお酒を届けさせて……そうそう、弥生ちゃんも呼んであげていい? お父様」
「こらこら、ゆき乃」
 ぶっきらぼうな口調で(といってもどこか声が笑っていましたが)はしゃぐ私をお父様がたしなめました。
「いつまでお父様と志津田君を玄関に立たせておくつもりだ?」
「まあ……ごめんなさい! 志津田少尉、どうぞ遠慮なくお上がりになってくださいまし」
「ありがとうございます」
 あわてて脇へどいた私に、相変わらず緊張した面持ちのまま志津田少尉はぺこりとひとつおじぎをしました。先に長靴を脱ぎながら、お父様はそんな少尉を見て語を続けます。
「これからちょっと遅くまで手伝ってもらわなくてはならないのでな、せめて飯でもと思って連れてきた」
「それじゃ、また陸軍省へお戻りに?」
「うむ」
「そうですか……」
 ここ最近、お父様が帰る時間は遅くなる一方です。帰ってきても、食事を済ませるとこんな風に陸軍省にとんぼ返りしてしまうことも多くなりました。なぜ遅くなるのかお父様は言いませんでしたが『輝夜』出兵の準備で忙しくなっているのだというのは分かりました。
 奇妙なことですが、あれだけ大騒ぎだった横須賀で海軍の出動準備を見ている時には、正直『輝夜』との戦などというのはどこか遠い世界の出来事のように思っていました。でも、こういうお父様を見ると、日本が本当に戦争をしようとしているのだということがひしひしと感じられてきます。
 ……不意に浮かんできた幻影に、私は思わず身震いしました。それは、子供の頃にどこかで眼にした武者の霊でした。戦で死んだとおぼしきその人は、半ば壊れた鎧をまとい、その隙間から血をしたたらせ、折れた刀を携えたまま、うつろに道行く人を眺めているのです……。
「……ゆき乃?」
「あ、ごめんなさい」
 お父様の心配そうな声に、私は我に返りました。
「ちょっとぼんやりしてしまって……じゃあ、急いでお食事の用意をしてしまいますね」
 不吉な幻影を振り払い、ことさら明るく言うと、私はばあやの手伝いをしに台所へ行きました。来るとも分からない戦の影におびえるなど軍人の娘として恥ずかしい、そう自分に言い聞かせながら。

 このプラリアでいちばん悩んだのが「この時代の陸軍中佐はサーベルをしているのか?」ということでした(笑)。
 組織関係や武器兵器などについては結構資料も見かけるんですが、こういった細かいことについての記述って実はほとんどないんですよね。まあ、なけりゃあ書かないという選択肢もあるんですが、具体的な描写のない文章って説得力ありませんからねぇ……。