帝都異聞

銀座にて


1:

 2月13日……銀座の一角は女学生や若い娘で時ならぬ華やぎを見せている。
「そっか、そういや明日はバレンタインか」
 チョコレートの包みを抱えてうれしげに、あるいはどこか思いつめた様子で通り過ぎる彼女たちを、街路樹にもたれて高見の見物とばかりに眺めながら七瀬咲夜軍曹はひとりごちた。本人は「治安維持のための見回り」と称しているが、警察も近いこのあたりに争乱の種があるわけもない。早い話がサボりである。
「あたしが娘の頃には、そんなもんはなかったけどねぇ……ま、おおかたどこぞの菓子屋がしかけたもんだろうけどさ」
 身も蓋もない意見を言って咲夜は手にしていたアンパンをかじろうとし、そこで「おや」とつぶやくと手を止めて袋に戻した。雑踏の中を見知った人物――うつむき加減の仁科ゆき乃がやってくるのを見つけたのである。姿かたちは西洋の白人娘のくせに楚々とした着物姿でそれでなくても目立つのに、なにやらひどく深刻な顔で歩いているものだから、道行く人は驚いて道をあける。が、当の本人はそんなことには全く気付いていないらしく、咲夜が呼んでも心ここにあらずという風情でそのまま通りすぎようとする。さらに何度か咲夜は呼び、しまいには前に立ちはだかるようにして声をかけると、彼女はようやく顔をあげた。
「……咲夜さん? どうしたんですか? こんな所で」
 眼をぱちくりさせたゆき乃の台詞に、彼女は思わず苦笑する。
「そりゃこっちの台詞だよ。一体どうしたのさ、上の空で歩くとスリにやられるよ」
「あ……すみません」
「いや別にあやまることはないけどね……なにかあったのかい。すごい勢いであるいてたけど」
 その質問に、和らぎかけていたゆき乃の表情がまた急に曇る。彼女は口ごもり、やがて、ためらいがちにため息をついた。
「その、髪飾りを落としてしまって……」
「髪飾り?」
「ええ……」
「ふーん」
 ついつい咲夜はそこらを見回す。が、一体どんなものかも分からないのにもちろん見つかるわけはない。
「あたしが見ても分かりそうな奴? 丁度暇だし探してやるよ」
「……え?」
 驚き半分、嬉しさ半分といった顔でゆき乃は眼をみはった。
「いいんですか? お仕事中でしょう?」
「これが仕事してるように見えるかい」
 咲夜が持ち上げたアンパンの袋を見て、返事に窮したのかゆき乃は困った顔をする。そんな彼女に咲夜はにやりと笑いを返し、まあちょっと落ちついて話そうと近くのカフェーを指さした。


 だが、実際に聞いてみると、ことはそう簡単ではなさそうだった。
 ゆき乃の話では、銀座で鉄道馬車を降りるまでは確かにつけていたという。2時間ほど買い物をしてから何気なく髪に手をやった時、落としているのに気付いたそうだ。自分が歩いた跡を何度も探し、入った店や果ては通行人にまでも尋ねてみたが、見つかっていないらしい。
「そりゃあ……誰かに拾われちまったのかもしれないねえ」
 咲夜が言うと、珈琲を前にしたゆき乃はべそでもかきそうな顔になった。やれやれ、このお嬢さんがこんな顔するとは、よっぽど大事なものなんだろうねえと彼女は思い、それでどんな髪飾りだいと尋ねてみる。
「ええと、大きさはこのくらいなんです」
 ゆき乃の白い指先が、卓の上に2寸ほどの楕円を描いた。
「銀でできていて……百合の花が金の象眼になってるんです。多分、見ればすぐ分かると思います」
「金の百合ねえ、確かにそいつは珍しいや。舶来品かい?」
「ええ、露西亜の品です」
「露西亜……ってーと、贈り物かなんかかい。ふーん、いいねえ若い者は」
 彼女の許嫁が海軍将校で露西亜に駐在中だというのは、何かの折に咲夜も小耳にはさんだことがある。からかい気味な咲夜の言葉に、ゆき乃は顔を赤らめた。
「咲夜さんだってまだお若いじゃありませんか。案外いいかたがいらっしゃるんではなくて?」
「いたらこんな商売やってないよ。とっとと嫁に行ってるさ。ところで……」
 ゆき乃が言い返すのをさらりとかわし、咲夜が話を変えようとした時だった。カフェーの扉が勢い良く開き、ふたりの洋装の男が入ってきた。ひとりが得意げに身振り手振りを交え、もうひとりに声高に話している。
「……ってわけだ。僕もこいつは参ったと思ったね」
「まあ世間にはいろいろな奴がるからなあ。それでその男はどうしたんだい」
 彼らが開け放した扉から、冷たい風が吹き込んでそれまで暖かかった店内を一気に冷やした。咲夜もゆき乃も思わず眉をしかめてそちらを振り返る。
「うん、それがだね、隣にいた僕が何気なく見ると、そいつはなんだか妙なものを持っているんだ」
 周囲の非難がましい視線に気付かないのか、男たちは帽子掛けに帽子をひっかけると手近な席に腰をおろした。片手で女給に合図をしながらなおも話し続ける。
「妙なというと?」
「女物の髪飾りだよ。それも銀細工に金をあしらった、逆立ちしてもそいつが買えそうにはない代物だ。こいつはあやしいと思ったね……ああ、珈琲を」
「僕も珈琲で……それで君はなにか言ったのか?」
「うむ。僕が見ているのに気付くとそいつは慌ててその髪飾りを懐へしまおうとした。それで僕は言ってやったんだ。僕は舶来品を扱うのが商売なんだが、それはきっと2円は下らないだろうね。君見たところ貧しそうなのに、どこでそれを買ったんだいとね」
「そうしたら?」
「みるみるそいつの顔色が変わったよ。そしてなんだかんだと言い訳をしだすから、これは間違いない盗んだなと思ってね、それは裁判官の前で言いたまえと警察につきだしてやった」
「ほう」
 それからも男の自慢話は続いたが、咲夜はもうその先は聞いていなかった。ゆき乃のほうを見やると、彼女も同じ答えを出したらしい。眼を輝かせてうなずくと立ち上がろうとする。
「待ちなゆき乃、あたしが聞くよ」
 ゆき乃を制して彼女は席を立った。それまでゆるめていた軍服の襟元をしめ直すと、相変わらず話続ける男たちのそばへ歩み寄る。
「ちょっといいかい」
「……なんだい陸軍さん」
 面食らったようなふたりの顔を見渡してから、咲夜は自慢をしていたほうの男に眼を向けた。
「その髪飾りのことだけど、持っていた奴、どこに突き出したんだい」
「4丁目だよ、それが何か?」
 男たちは顔を見合わせてからそう答えた。
「4丁目って、銀座の?」
「そりゃ4丁目の警察っていったらここらにひとつしかないからね」
「無駄口叩いてんじゃないよ。聞かれたことにだけ答えな」
 咲夜が決めつけると、男はなんだこの平民めという顔になった。インテリぶりやがってと彼女も内心思ったが、顔には出さずにゆき乃のほうを示す。
「その髪飾り、あのお嬢さんのじゃないかと思ってね。銀座で落としちまって今朝から探し回っているそうなんだ」
 小首をかしげて心配げにこちらをうかがうゆき乃を見て、彼らはなにやら納得したようだった。銀座4丁目の警察だという言葉を聞いて、咲夜は短く礼を言い、くるりときびすを返す。
「聞いたかいゆき乃、行く……」
 ……だがその時には、卓の上に珈琲代だけを残してゆき乃は外へ飛び出していた。


2:

 4丁目の警察の中では、なにやらひと騒ぎ持ち上がっているようだった。男同士で言い合う声が聞こえてくるのを首をのばした見物人が10人ほど、のぞきこむようにして見物している。
「ちょっと待ってな、見てくるから」
 ゆき乃にそう言うと、咲夜は軍服と腕力に物を言わせ見物人をかきわけて前に出た。やっぱり首をのばしてのぞきこむと、椅子に座らされた若い男を巡査がふたり、問いつめているらしいのが眼に入る。
「……本当にこれがお前の買った物なら、買った店を言えるはずだな? ん?」
「だから浅草の露天商ですよ。露天商の名前なんていちいち確かめて買いやしませんって」
 高飛車な巡査の物言いに、まだ若い男は口をとがらせて言い返す。この季節だというのに羽織も外套も着ず、小汚い絣の着物を重ねているだけのいかにも貧しそうな男だった。カフェーで連中が言ってたのはこいつだな、と咲夜は考える。
「嘘をつくな! どう見てもこれは舶来品だぞ、露天商なんかで売ってるものか! 言え! どこで盗んだ?!」
「だから、くにの妹への土産に金ためて買ったですよお巡りさん。盗んだなんてそんな……そんな人聞きの悪いこと言わねえでくださいな」
 巡査が問いつめるのに、見るからに勇気をふるって男は抗弁する。しばらく黙って咲夜は聞いていたが、どうも彼らは同じようなやりとりをひたすくり返しているだけだった。男のほうもただじゃなく強情だが、巡査たちも能なしくさいなと思いながら、彼女はひとりの巡査が男につきつけたものを眉を寄せて見つめた。
 手の陰になって見えにくいが、どうやら銀の地になにか金を象眼したもののように見える。あれか……と思った瞬間、すぐ後ろで「あっ!」と息を飲む気配がした。
「ゆき乃? 待ってろって言っただろ」
「あれです! 咲夜さん、あれ!」
 咲夜の小言などゆき乃は聞いていなかった。巡査の手の中の物をまっすぐに指さす。
「あれ、私の……私の髪飾りです! 良かった、見つかった!」
「……なんだ? お前たちは」
 騒ぐゆき乃に気付いた巡査たちが不審気な眼を向けてきた。咲夜は素早くゆき乃を引っ張り、警察の中へ入り込む。
「その髪飾り、このお嬢さんのだってよ」
「…………」
 着物姿の異人娘、ゆき乃の姿を、巡査ばかりか男までもがじろじろと眺めた。たっぷり上から下まで見た後、ようやくひとりの巡査が「名前は?」と問う。
「仁科ゆき乃と申します」
「まるで日本人のような名前だな。本名か? 名を騙ると罪になるぞ」
「いえ、私は……」
「日本人なんだよ、この人は」
 こういった扱いには慣れているのか、無遠慮な巡査の物言いにもゆき乃は大人しく答えようとした。だがその前にいらついた咲夜が口をはさむ。
「なんだいその眼は。見せもんでも見るような眼しやがって、全く頭来るったらありゃしない。ゆき乃、あんたの親父さんがなにやってるか、この眼が黒いだけで節穴のぼんくらどもに教えてやんな」
「咲夜さん……」
「いいから言ってやれってんだよ。少しはこいつらも礼ってもんを思い出すだろうさ」
 それは全くそのとおりだった。
 ゆき乃が陸軍省勤務の大佐の娘だと知った途端、彼らの態度が面白いくらい豹変したのである。
「大変失礼しました……こ奴がなかなか吐かないもので少し苛立ってまして。これがその髪飾りですが、お確かめいただけますか?」
 さきほどの高飛車な口調はどこへやら、慇懃に彼らは言い、手にしていた髪飾りを彼女に手渡した。
「この男は、自分で浅草の露天商から買った物だと主張しておるのですが……どう見ても不釣り合いな品なので尋問しておったところです。本当にこれはお嬢さんの物ですか?」
「私のです」
「分かりました……おい! 聞いての通りだ。やっぱりお前が盗んだんだな?」
「違いますよ! 確かに買ったってのは嘘です。おいら、嘘をつきました……でも、盗んだんじゃありません。拾ったんですよ!」
「まだ嘘をつくか!」
「待って、待ってください」
 男を殴りつけようとした巡査を、ゆき乃は慌てて止める。
「拾ったっていうのは本当です。私はこれを落としたんです。盗まれてなんかいません」
「それはお嬢さんが気付かなかっただけですぞ。こやつはなんとか自分の罪を軽くしようと言い逃れをしておるんです」
「だからそれは違うって……」
「ゆき乃」
 言い募りかけた彼女の袖を、咲夜は引っ張った。振り返るゆき乃に首をふり、隅のほうへ連れていく。
「駄目だよ、ゆき乃。奴らは手柄をたてたいのさ。それにはネコババじゃなくて盗人じゃなくっちゃ駄目なんだよ」
 低い声で咲夜がささやくと、ゆき乃は藍色の眼をみはった。
「そんな……何故です? 非道いじゃありませんか。咲夜さんからもなんとか言ってください」
「無駄だろうね」
「どうして?!」
「あんたの身分さ。見ただろう? あんたが親父さんのこと言った後の警官連中の態度の変わりよう。早い話が、奴らは点数稼ぎをしようとしてるんだよ。最初あんたにしたふるまいを帳消しにしようとしてね。だから、何を言っても聞きゃしないさ」
「そんなことどうでもいいのに……」
「そう思うのはあんたが上のほうの人間だからだよ。ところが、連中にとっちゃどうでもなんか良くないんだな。親父さんにでも告げ口されたら自分たちの将来に関わるとか思ってるだろうね」
「でもお父様はただの軍人で……」
「ただって言うかい、あんた……」
 咲夜は思わず苦笑した。
「大佐っていやあ上から数えたほうが早い階級じゃないか、あたしなんかひっくり返ったってなれやしないんだよ。ま、高松中尉くらいだったら運と努力次第ではいけるかもしれないけどさ……」
「それは……そうかもしれませんけど……」
「かてて加えて、娘が舶来物の髪飾りをなんの疑問もなく髪に飾って銀座で買い物できるような身分だとなったらねえ、どうだかね。あの手の小役人ほどそういうことを変に気にするもんだし」
 ゆき乃は愕然としたようだった。どうやらこのお嬢さんは、自分が本当にただの娘だと思っているらしい、と咲夜は思った。まあ、変に特権意識ふりまわされるよりは遙かにマシだけどね、逆に鈍感っていうのもある種罪だからねえ……。
「…………」
 咲夜の内心の独白が聞こえでもしたように黙りこんでしまったゆき乃は、かさにかかって男を責めたてている巡査たちに眼を向けた。次いで唇を噛み、手の中の髪飾りをつらそうに見つめる。
 そして……
「あらっ?!」
 突然彼女が大声をあげたので、咲夜は驚いた。
「どうしたんだい?」
「咲夜さん、これ、私の髪飾りじゃありません」
「えっ?!」
「模様は良く似てますけど……よく見たら細工は雑だし、銀も百合の金も贋物っぽいし、おおかたどこかの露天商で買った安物でしょう」
「……なんですと!?」
 話を小耳にはさんだらしい巡査が飛んでくる。
「ちょっとゆき乃、あんた正気かい? 誰が見たってそれは……」
「贋物でしょ? 咲夜さんもそう思いません?」
 咲夜が言いかけるのをさえぎり、ゆき乃は髪飾りを彼女に向かってかかげてみせる。その眼が話を合わせてくれと懇願しているのを見て、咲夜はゆき乃がなにをしようとしているのかを悟った。
「ゆき乃、あんた……」
「ね? きっとまともな店で買ったものじゃないです、これ……こんな違いも分からないなんて、よっぽど慌てていたのね、私」
「……あ、ああ……そうだろうね」
 たたみかけるように言葉を続けるゆき乃に、彼女は渋々うなずいた。ゆき乃はうなずき返し、そばでうろうろしている巡査を振り返る。
「一見舶来品みたいですけど、これはひどい安物だわ。この程度のものならそこらでいくらでも買えるでしょう。きっとあの人が持つくらいのお金でも……でも私はこんなものは持ちません」
「し、しかし、さっきは確かに……」
「さっきは動転していて分からなかったんです。なにしろ模様が似てましたし、夢中でしたし……そういうわけで、これはそちらの人に返してあげてくださいな。お手間をとらせて申し訳ありませんでした」
 一気にまくしたてたゆき乃は、茫然としている巡査の横をすりぬけるとこれまた茫然としている男の手に髪飾りを押しつける。それからひとつ会釈をすると「咲夜さん、行きましょう」と言ってさっさと警察を出ていってしまった。


「……ゆき乃!」
 早足で歩いていたゆき乃は、咲夜が呼ぶとようやく足を止めた。
「あんた、いいのかい? あんなことして……大事なんだろ、あれ」
「……いいんです」
 彼女の問いに、ゆき乃はうつむいたままぽつりと答える。
「髪飾りはまた……何かの折にきっといただくこともできます。でも、罪人というのは一生消えない傷ですから……妹さんがいるって言ってましたし……」
 一瞬、ゆき乃の肩が震えた。だが彼女は大きく息を吸い、顔をあげると咲夜に向かって微笑んでみせる……まるで泣き笑いのような笑顔だったが。
「咲夜さんにもご迷惑をおかけしてしまってごめんなさい。私のために一生懸命になってくださったのに」
「いや、別にいいんだけどさ……」
 なんだか割り切れないものを感じて、咲夜は言葉をにごした。そんな咲夜の思いに気付いているのかいないのか、ゆき乃はぺこりと頭を下げる。
「私、もう帰ります。今日は本当にありがとうございました。咲夜さんも気をつけてお帰りくださいね」
「あ、送ってくよ」
「いえ、大丈夫です。ひとりで帰れます……それじゃ、またお会いしましょう」
 どこかとぼとぼとした足取りで離れていくゆき乃の後ろ姿を、咲夜は無言のまま見送った。そして口をへの字にすると、なんとなく警察のほうを振り返る。
「……納得いかないね……」
 そのつぶやきは、誰の耳にも届かなかった。

3:

 ……それから数日後のことである。
 お客が来てると下宿屋のおかみに言われて外へ出た咲夜は、そこにたたずむゆき乃の姿を眼にして驚いた。
「どうやってここを知ったんだい? まあ上がりなよ。なんにもないけどばあさんに言えば茶ぐらいは出してもらえるんじゃないかな」
「いえ、すぐおいとましますから……」
 そうは言ったものの、なにが言い出しづらいのかゆき乃はしばらくもじもじとしていた。咲夜が先をうながそうかと思い始めたころ、ようやく彼女は口を開く。
「あの、もしかしたら咲夜さんならお分かりになるかと思って、来てみたんです」
 そのひとことで、咲夜にはぴんと来た。だが表に出しては「何が?」と聞き返すだけにする。
「これが……家に投げ込んでありました」
 ゆき乃は懐から粗末な紙包みを出し、開いてみせた。中から現れたのは、銀地に金で百合を象眼した髪飾りだった。
「ふーん、で?」
「この間の……拾った人に私の家が分かるとは思えませんし……咲夜さん、なにかご存じありませんか?」
 言おうか言うまいか、咲夜は一瞬迷った。が、生真面目なゆき乃の様子を見てこれは言うべきだろうと考える。
「あのすぐ後にあの男が出てきたんでね、つかまえてあんたの家を教えたのさ」
「…………」
 慎重に表情を押さえてはいたが、ゆき乃が自分に対する非難を隠しきれなかったのに咲夜は気付いた。少々むっとしたが、とりあえずは言って聞かせようと腹立ちを押さえつける。
「あれを奴が持ってても、誰も幸せにならないって思ったのさ。あんたは許嫁からもらった大事な品をなくして悲しむし、あの男は……どうごまかしたってその髪飾りが分不相応な代物だってのは一目瞭然なんだ。遅かれ早かれまた厄介に巻き込まれるだろうよ……だから結局、あんたが持ってるのがいちばんいいってあたしは考えたんだけどね。余計なことしたかい」
「いえ、そんなことは……」
 それでも言葉の端々に不機嫌さが出たらしい。ゆき乃は口ごもり、手の中の髪飾りを見おろした。
 ややあって、ぽつりと咲夜に尋ねる。
「……この人がどこに住んでいるか、お聞きになりまして?」
「なにする気だい」
「せめてお礼を言わないと……」
「やめときな」
 普段こんな風ににべもなく言い返されることがないのだろう。咲夜の言葉に彼女は一瞬ひるんだ。だがすぐに「なぜです?」と問い返してくる。咲夜は両手を広げた。
「あんたはその髪飾りをネコババされそうになったんだよ? それをわざわざ礼だなんてお人好しもいいところじゃないか……大体、あっちだってもうその髪飾りとは関わりたくないだろうさ。あんだけひどい目に遭えばね」
「でも……もともと落としたのは私の不注意なのに」
「だからそんなの関係ないって。あんたも、あいつも、これ以上関わりなんて持んじゃないよ。それが互いのためってもんだ」
 恐らくはその日暮らしの身であろうあの男と、舶来物を当然のように身につけられる娘、たとえゆき乃がどんなに心を砕いたとしても、その差は不幸しか呼ばないだろう。良い悪いではない、それが世間のありようなのだということを、咲夜は良く知っている。
「…………」
 そんな咲夜の思いをゆき乃も感じたのだろうか。ゆき乃はしばらく考えこんでいたようだった。やがてひとつこくりとうなずき、彼女は笑顔を見せる。
「そうですね。もうこのことには私、関わらないことにします……これももう二度となくさないようにしないと」
「気をつけることだね。銀座でのあんたの顔ったらなかったよ」
 遠慮のない物言いにゆき乃はわずかに赤面した。そして髪飾りを元のとおりに包むと大事そうに懐にしまいこみ、軽く会釈をすると帰っていったのだった。

 七瀬咲夜さんのプレイヤー、みすみさんからのリクエストで書いたものです。バレンタインネタでとのことでしたが、できあがったときにはバレンタインはおろかホワイトデーまでも過ぎていたのでした……。
 最初はもっと軽いノリだったんですが、どうせ書くなら小手先ではなくきっちりしたものをと直しているうちに、いつの間にかバレンタインとはほど遠い話に……しかも三人称で文章を書くのは久々だったので、調子を戻すまでにも時間がかかりました。
 でも、人様のPCを主人公にして書くのって結構勉強になりますね。