――……姫…… ――姫……お願いがございまする…… 「……なんの用?」 午前2時、枕元にたたずむ小さな魚妖を、寝ぼけまなこで瓜生織香はにらみつけた。 「今何時だと思ってるの。頼みがあるならもっと常識的な時間に来なさい」 ――お願いがございまする。 不機嫌な織香の声音にひるむことなく、魚妖は続けた。 ――我らをお助けくださいませ。 「……退魔ならおじいちゃんに頼んでちょうだい。あたしじゃ力不足よ」 ――お願いがございまする。 「だからおじいちゃんに頼めって言ってるでしょう。あたしは眠いの!」 そう言い捨てると、織香は布団をかぶって魚妖に背を向けた。妨害された安眠を取り戻そうと眼を閉じる。 だが、魚妖は去らなかった。向けている背中に悲しそうな気配がひしひしと伝わってくる。どうやら本当に困っているらしい、と彼女は思い、いや同情しちゃダメと自分を戒める。下手に相手になったりしたらなにをさせられるか分からない。眠っちゃえばこいつもあきらめて帰るだろう。そう眠れば……。 「……あーもう、分かったわよ!」 ……十数分後、布団をはねのけて織香はわめいた。 「あたししつこいのって嫌いよ! そんなとこに突っ立ってないでなにさせたいのかさっさと言いなさい! つきあってやるから!」 魚妖が案内してきたのは、庭の池だった。池といってもそんな立派なものではない。庭いじりが好きな父が、3年ほど前にプラスチックのひょうたん池をDAY店で買ってきて埋めたもので、中では1匹100円の金魚やら5匹100円のメダカやらが泳いでいる。 「……へえ、実は金魚だったのね、あんた」 ――いえ、ここは入り口でございまする。 「入り口?」 言われてみれば、水の色が普段と違った。いつもは澄んで底の砂利や泳いでいる魚が見えるのに、今織香の前にある池の水面はとろりと青黒く、空の月を映して底知れぬ深さをたたえている。 「で、なにがお願いなの」 ――わしらの住処が、水蛇に襲われて困っておりまする。 「太さと大きさは」 ――太さはそこの木ほど。長さはわしらが20人連なっても、まだ届きませぬ。 「…………」 織香は思わず魚妖を見直した。彼女を見上げてちんまりと立つその魚妖は大体15センチほどの大きさである。それが20匹分ということは……少なくとも水蛇は体長3メートル以上ということではないか。 どう考えたって勝てるわけないじゃないの、とむっつり織香が考えた時だった。 「織香、夜中になにを騒いでるんだ」 「……おじいちゃん」 厳月の字名で知られる祖父が、寝間着姿でのぞきこんでいた。織香が手早く経緯を話すと、厳月は魚妖に笑顔を向ける。その視線を受けて魚妖はぺこりとお辞儀をした。 「水輪か、その節は世話になった」 ――お久しゅうございまする。 「知り合い? おじいちゃん」 「昔ちょっとな……水輪、聞けばこの件、うちの孫にはいささか荷が重いようだ。良ければ前の礼も含めて、厳月がその水蛇、退治するが?」 やった! と織香は思った。経験も力もあるとはいえない彼女より、名実共にプロの退魔師である祖父が引き受けたほうが絶対いいに決まっている。よもや魚妖も嫌とは言わないだろう。 だが…… ――……いえ、姫にお願いしとうございまする……。 「そうか」 彼女ががっかりしたことに、魚妖の言葉はかたくなだった。そして、厳月もあっさりとうなずき「ちょっと待っていなさい」と言って部屋に引っ込む。 「これを持っていくといい」 出てきた祖父が手渡したのは、片手におさまるくらいの黒い石だった。持ってみるとなにかの力がこめられているのが分かる。 「どう使うの?」 「水蛇に遭ったらぶつけなさい。呑み込ませることができればもっといいが……下手に近づくと巻き付かれるから無理するんじゃないぞ」 「はあい」 「お前なら大丈夫とは思うが、くれぐれも巣に引きずり込まれないように気を付けなさい。水蛇は結構力が強い」 ……そんな奴の相手をするのか、と織香はげんなりした。無理と知りつつ、改めて祖父に頼んでみる。 「一緒に来てくれない? おじいちゃん」 「お前に頼みたいと水輪が言ってるんだ。これはおじいちゃんじゃなくてお前の仕事だよ。頑張りなさい」 ――巣に引きずりこまれたら二度と出て来れませぬ。骨まで食われてしまいまする。 厳月の答えは予想どおりだった。しかも水輪が余計な補足をつけたので、彼女はますますげんなりしたのだった。 その水の中は快適だった。上から見たときは青黒くにごっていると思ったが、入ると意外と清く深い。波の音が感じられないことからすると、広さも結構あるのだろう。 「さーて、どこに水蛇がいるんだか」 Tシャツのすそをウェストのあたりで縛りながら、、織香はひとりごちた。 水中でたゆたう今の彼女はヒトではない。腰から下が長大な魚の尾に変化した、いわゆる人魚と呼ばれる姿になっている。家族親類一同の中で、このような異形のカタチを持つのは織香ただひとりであり、このことは長い間彼女のひそかなコンプレックスとなっていた。 「あんたの住処の近くではってれば、出てくるかしらね」 ――それはご勘弁くださいませ、姫。 水輪の返事は哀願に近かった。やっぱりねえ、と彼女は思う。そんな住処の近くで待ち伏せたりしたら、成功すればいいが失敗したら大惨事である。いくら水輪でも、そんなリスクの高いことはやらせたくないに違いない。 ――わしがおびき出しまするゆえ、後をお願いいたしまする。 「大丈夫なの? あたしの眼の前で水蛇にぱくりなんてことないでしょうね」 ――ないとは言えませぬが……わしらの住処を守っていただくのに、なにもせぬというわけには参りませぬ。 少し離れていてくだされ。そう言って水輪はついと泳ぎ出した。10メートルほど先へ行くと、不意に苦しそうに身をくねらせて暴れ始める。一瞬ぎょっとした織香は、すぐにそれが芝居であることに気付いた。ピラニアや鮫など肉食の魚は、弱った魚が苦しんでもがく音を聞きつけて襲ってくるという。恐らく水蛇もその類であり、水輪はそれを知っているのだろう。 果たして、いくらもたたないうちにあたりの水が変わり始めた。寒気のするような感覚に織香は身震いをする。一体どこから……と思ってあたりを見回した時のことだった。 視界の隅を、巨大ななにかがよぎった。 「……水輪っ!」 彼女の叫びに、小さな魚妖は素早く身を沈めた。直後、それまで水輪がいた場所をかっと開いた蛇の口が通っていく。 「げー、でかい!」 それは体長5メートルはあろうかという大きな水蛇だった。すんでのところで獲物を捕まえ損なった蛇は、水中で器用に停止した。きびすを返し、暗く光る眼で織香をにらみつける。 ――邪魔をするか、小娘! 「四捨五入すれば30歳よ!」 言い返しながら、織香は手の中の石を握りしめた。 「あんたを退治に来たわよ、水蛇」 彼女の台詞に、水蛇はせせら笑った。 ――面白い、水妖の小娘ひとり、そんな石ころひとつでなにをしようというのだ。 「あたしは妖じゃないわ!」 ――妖でなければなんだ。魚のなりぞこないか? ゆらゆらと水の中で揺れながら、小馬鹿にしたように水蛇は笑う。織香はすぅっと眼を細めた。 「水蛇……あんた、後悔するわよ!」 そう言うのと、彼女の漆黒の尾が水を蹴るのが同時だった。 ぶつけるというのは最初からあきらめている。あんな細長い物体に確実に当てられるほど彼女の投擲の腕は良くない。それよりも、怪我を覚悟で向こうが口を開いた瞬間に石を口の中に突っ込むほうが、少なくとも織香としては成功の可能性は高かった。 予想どおり、応戦するように水蛇が口を開けたのを見て彼女はしめたと思った。一気に間合いをつめて腕をのばそうとする。その瞬間…… 横合いから衝撃を受けて織香は吹っ飛んだ。はずみで石が手からこぼれる。 「……!」 ――姫! わしが拾いまする! 水輪が身をひるがえし、沈んでいく石を追って水底に消えた。返事をする余裕もなく、一体なにがぶつかってきたのかと織香あたりを見回す。と、身体になにか巨大なものがするりと巻き付いてきた。 ――頭にばかり気を取られぬほうが良いぞ。 気味の悪い水蛇の声が耳許で聞こえた。同時にぎりっと全身を締めあげられ、彼女は思わずうめく。 ――我の尾は長いからな。どこから出てくるか分からぬぞ。 「……ご忠告どうも」 苦痛に顔を歪めながらも織香は吐き捨てた。 「どうせなら、実行する前に言ってちょうだいよ。それならあたしもよけられるんだから」 ――ふん、口の達者な娘だ。 ずるりと水蛇が後ずさり……水中でそう言ってよければだが……した。眼を向けた織香は、いつの間にか漆黒の異空間がすぐそばに出来ているのを見て戦慄した。水蛇の尾の先は、その空間の中に消えている。 あれが巣?! ――そうだ。 彼女の考えを読んだかのように、水蛇が言った。 ――泥臭い魚妖どもにもそろそろ飽きてきていたところだ。あの中でゆっくりと喰らってやる。 「冗談じゃない!」 織香はもがいたが、蛇のいましめはゆるむどころかますますきつくなるばかりだった。そうして締めあげながらも、長い尾は異空間の中へ少しずつ呑込まれるように消えていく。 ――そろそろあきらめたほうが良いぞ。我から逃れたものは今までいない。 水蛇が舌なめずりをしながら笑う。 「……水蛇」 ――なんだ? 言い残すことがあれば聞いてやろう。 「あんた、友だちいないでしょ」 ――? なにを言うのかと水蛇が首をかしげた、その一瞬だった。 織香のTシャツの背中が音を立てて裂け、トビウオにも似た羽がその背にのびた。青く透き通る羽はまきついていた水蛇の肉をのびる勢いのまま切り裂き、舞いあがる血の中で織香はその羽を大きく広げる。 ――なに!? まさか! 彼女が力強く羽ばたくと、水蛇の尾はあっという間に異空間から引きずり出された。 ――その蒼翼は……姫か! 「瓜生織香をなめるんじゃないわよ!」 ほどけて逃げようとする蛇の頭を、織香は素早く両手でつかんだ。口に指をこじ入れると無理矢理開かせひとこと呼ぶ。 「水輪!」 しゅっと小さな影が水中を横切った。彼女の肩越しに突っ込んできた水輪は、くわえていた石を吹き出すようにして水蛇の口の中に放り込み、反転する。すかさず織香は水蛇の口を閉じ、そのまま突き放した。 その瞬間、上から雷が降ってくる。 雷は水蛇を直撃し、その長い身体をまばゆく照らして爆発した。吹き飛ばされてくるくると舞う水輪を織香が両手で受け止め、そのまま抱きかかえる。爆発の光は1、2秒続いて唐突に消え、後には黒く焼けこげた水蛇の残骸が残された。 「……さすがおじいちゃんね」 もはやぴくりとも動かず、ゆっくりと沈んでいく水蛇を眺めて織香はひとりごちた。あの石は多分、祖父の端末だったのだろう。あの石を介して戦いの様子を知り、孫が水蛇に飲ませたと知った瞬間、あの石を焦点にして水の上から雷を放ったに違いない。 「大丈夫? 水輪」 ――はあ……。 織香の腕の中で、脳しんとうでも起こしたのかぼんやりとして水輪が応じた。とりあえずは休ませたほうがいいかも……どうやって休ませるかはまた考えるとして……と彼女は思い、尾をひとふりすると水面へと向かって泳ぎだした。 「良く退治したな、織香」 水面に顔を出した織香を、厳月は笑って迎えた。 「早く上がりなさい。夜が明けるとその道は消えるから」 ふり仰ぐと東の空が白んできている。織香は差しだされたバスタオルを腰にまきつけ、ヒトの姿に戻ると池の中から庭に這い上がった。水輪はようやく意識がはっきりしたか自力で彼女の腕から離れ、これまた地面に這い上がっている。 ――……誠にありがとうございました、姫。 「お礼ならおじいちゃんに言って」 深々と頭を下げる魚妖に、織香は首をふると祖父を示す。 「おじいちゃんの雷がなかったら退治できなかったんだから」 ――いえ、雷がなくとも姫なら退治されたでございまする。あの水蛇の慌てようをご覧になりましたでしょう。もし…… 「水輪」 まくしたてようとする水輪を厳月がおだやかに遮った。 「そろそろ道が消えるぞ」 ――なんと、これはしたり! 空を見上げると水輪は慌てて池に駆け寄り、そのまま頭からちゃぷんと転がり込んだ。一旦沈んだ後、顔を出してもういちどぴょこりと頭を下げる。 ――今はこれにて失礼させていただきまするが、後ほどお礼を届けさせまする。それでは姫、厳月殿、ご機嫌よろしゅう……。 そして再び水輪はぽちゃりと沈み、二度と姿を現わさなかった。織香はしばらく魚妖が去った水面を眺めていたが、やがて祖父を振り返る。 「ねえ、おじいちゃん」 「うん?」 「水蛇もそうだったんだけど、なんで水輪はあたしを姫って呼ぶの?」 「……そりゃあ、人魚といえば人魚姫と昔から決まってるじゃないか」 万事に明快な祖父にしては、どうもはっきりしない答えだった。織香はなんとなく不安になり、そして、なぜ自分が不安になるのか不思議に思ったのだった。
称号『蒼翼の人魚姫』を見て思いついたものです。「人魚姫? ふーん、ただの人魚じゃないんだー、そーいや出生の秘密持ち出しなあ、へへへ(闇笑)」という……不用意な称号を付けた我が身を呪ってください、マスター(笑)。
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