エターナルムーン プライベートリアクション
その瞳の見るもの 〜ファニタ



 この国にばーちゃんの墓はない。でも、あたしはそれでいいと思ってる。
 なぜなら、ばーちゃんは今でも世界のどこかを気ままに旅しているんだろうから。

1:
「ファニタ……ファニタ!」
 東ヨーロッパ・カザフスタン政府外交局。自席でエンブリア大陸に関する資料を読みふけっていたファニタ・イティルは、数回呼ばれてようやく顔を上げた。いつの間にきたのか、彼女の上司がすぐ近くに立っている。
「なんですか? 外交局長」
「この間君が出したレポートだがな」
「不備があったならすぐ戻してください。直して再提出しますから」
「いや、逆だよ。すばらしい出来だったと誉めようと思ったんだ」
「…………」
 ファニタはうろんげな眼で中年の外交局長を見上げた。なにを言うかと思えばこのおっさんは、というのがありありとその眼には表れている。
「学生の練習作文じゃあるまいし、あのくらいできて当たり前です。局長も忙しいんだからいちいち誉めにこないでください」
「…………」
 今度憮然としたのは外交局長のほうだった。
「……ファニタ・イティル。君はもう少し上司や年長者というものに敬意を払ったほうがいいぞ」
「じゃあ局長は、心にもないお世辞を言われるとうれしいんですか?」
「…………」
 怒ってはいけない、と局長は自分に言い聞かせた。彼女はダークエルフなのだ。小娘に見えてもなみの大人を遥かに越えた能力を持っている。それに……彼女の性格が悪いのは今に始まったことではないのだから。
 彼は無難な方向に話題を切り替えた。
「そういえば、アル・ソフィア学術院へ留学するそうだね」
「はい。父の言いつけで」
「残念だな、君のような優秀なスタッフがいなくなるのは」
「代わりはいくらでもいます」
「それは君のお祖母さんの名言だね。『私の代わりはいくらでもいる。そしてそれこそがこの国の最大の長所なのだ』」
 そう言った瞬間、ファニタの緑色の眼がきらりと光った。それを見た局長は彼女がこの手の話題を好まないことを思い出し、あわてて口をつぐむ。
 気まずい沈黙が漂った。
「……無駄話をしにきたんなら、あたしは帰りたいんですけど、局長」
 ばさりと音をたてて書類をそろえ、先に口を開いたのはファニタのほうだった。少なからず救われた思いで局長はこくこくとうなずく。
「あ、ああ、そうだな。明日もまた頼むよ。君がいると仕事が早く片付く」
「明日はイングランドへ出張です。代表団に先行して通商会議のお膳立てをしておくよう命じたのは、ほかならぬ局長だったと思いますけど?」
「…………」
 彼の反応にはおかまいなく、彼女は書類をバッグに入れると立ち上がり、一礼してすたすたと部屋を後にした。
 彼女が去った後、部屋からは大きなため息が聞こえてきた。

2:
 政府庁舎のエントランスホールの正面には、歴代の国家元首の肖像画が飾ってある。その1枚の前でファニタはふと足を止め、画を見上げた。
 彼女の眼に映るのは、軍装に身を包んだ堂々たる赤毛の女傑だった。元首になったときにはまだ30歳前だったはずだが、その美貌の中にかすかに浮かんだ笑みと腰の半曲刀に軽く手を当てた立ち姿には、すでに数千の将兵と数万の国民を率いる者の風格が現れている。いつだったか、家にあった同じ半曲刀を使って鏡の前で同じポーズをしてみたことを、ファニタはなんとなく思い出した。結果は、自分でもがっかりするようなものだったが。
 外見からあたしがばーちゃんの孫だと分かる人はまずいない。それほどあたしとばーちゃんは似ていないのだ。
 なのになぜ、人はなぜあたしを通してばーちゃんを見るんだろう。
 ……人が思っているほど、ファニタは祖母が嫌いではなかった。いやどちらかといえば憧れていたといってもいい。嫌いなのは、すでに過去のものであるその物語を現在の自分と結びつける人々の反応であり、それを誇らしいものとする家族の考えかただった。
 あたしはばーちゃんが好きだ。でも、ばーちゃんの影から出られないのはいやだ。
 だから……あたしは、ばーちゃんの影のない世界へ行きたい。
 ファニタはバッグの中のエンブリアの資料をそっと押さえた。局長に声をかけられた時は一瞬ひやりとしたが、目の前でバッグに入れるのを眼にしても書類の持ち出しに気づかないのだから、まったくもって無能としか言いようがない。まあ、そのおかげでこっちもやりたいことができるわけだが。
 ……ばーちゃんに分かるかなあ、あたしのこの気持ち。
 ふん、とひとつ鼻を鳴らし、彼女は肖像画の前を離れた。

3:
 ファニタの家は、政府庁舎から歩いて20分ほどのところにある。家族は父ひとり。母は、彼女を産んだ直後に亡くなった。
 門越しに見る家の窓は、まだ暗かった。また親父は残業か、と思いながらファニタは門を開けようとする。
「お帰り、ファニタ」
 振り返った彼女の視線の先に、背を曲げるようにして大きな粉袋を肩にし、笑っている青年……といってもふたつ年上なだけなだが……がいた。ファニタは思わず顔をしかめる。
「なによエリックその袋。うちはなんにも注文してないけど?」
「ああ、ファニタんちじゃないよ。これはパン屋のセニャーウィンの所へ持っていくんだ」
 エリックは近所の粉屋の息子であり、幼馴染といってもいい関係にある。いや、どちらかといえばファニタはこの青年を苦手としているのだが、どういうわけか彼のほうがなにかと声をかけてくるのだった。
「セニャーウィンとこ?! あんたの父さん、あんな遠いところへあんたを配達に行かせようっていうの?」
「いや、親父も兄貴もいないんだ。馬車はお袋が使ってるし、セニャーウィンは大至急って言うし、しょうがないから俺がかついでこうと思って」
 ファニタは呆れた。最近でこそ力仕事もするようになったが、子供の頃彼は年の半分はベッドで過ごすような身体だったのである。そんなエリックに頼むほうも頼むほうなら、引き受けるこの男もこの男だ。途中で倒れでもしたら一体どうするつもりだろう?
「断りなさいよそんなの! あんた、自分が身体弱いの知ってんでしょ?!」
「うーん。でも困ってるって言われたら断れないじゃないか」
「……だったらこんなところで油売ってないで、体力が続くうちにとっとと行ったらどう」
「いや、なんだかファニタがちょっと疲れてるみたいに見えたからさ。気になって」
「…………」
 ファニタがエリックを苦手な理由は、実はここらへんにある。とにかくとんでもないお人好しの上徹底的に鈍いので、何を言おうが効かないのである。一体彼の精神構造がどうなっているのか、つきあい始めてからゆうに15年を経た今でも彼女には見当もつかなかった。こいつ馬鹿じゃなかろうかと思ったこともいちどや二度ではない。
 ファニタは青年の顔を一瞥した。表情こそのんきそうだがすでに彼の息は上がり、額には冷や汗が浮いている。多分ケチで気が利かないセニャーウィンのことだから、こんなエリックを見ても休ませようなどとは思わないに違いない。そして、さらに悪いことにエリックのほうもそれを要求しないのだ。休ませてもらわなくては後で自分が不自由するということが分かっているくせに。
「……グナイゼナウ、来なさい」
 ため息混じりの彼女の声に応えて、1体のゴーレムが門の中から姿を現した。ゆっくりとエリックに近づくと、眼をみはっている彼の肩から粉袋を取り上げて抱え上げる。
「代わりに持ってったげるわ」
「ありがとうファニタ。助かるよ」
 むっつりと言うファニタに、エリックは相好を崩した。それを見たファニタはますます不機嫌な顔になる。
「礼は無用。大体、セニャーウィンとこにだって人手はあるでしょ。あんたにわざわざ持ってこさせるなんてどういう了見?」
「仕方ないさ、忙しいんだし。それに、俺もまるっきりできないわけじゃないから」
「…………」
 もはやなにも言わず、ファニタはゴーレムとエリックを促して歩き出した。彼女と並びながらエリックはゴーレムを賞賛とうやらやましさの入り混じった眼で眺めていたが、やがてふと表情を改めてファニタを見る。
「そういえばファニタ、エンブリア行きの件は……」
「しっ!」
 ファニタはあわてて幼馴染の口を押さえた。
「親父もみんなもあたしがアル・ソフィアへ行くって信じてんのよ。こんな所でぶち壊すようなこと言わないでよ!」
「ご、ごめん……でも、誰も聞いてないと思うけど」
「万一ってことがあるの!」
 以前それでひどい目にあったことがある。彼女は眼を白黒させているエリックから手を離し、あたりを見回した。あたりに人影がないのを確認すると肩の力を抜く。
「……今日、外交局から資料を持ち出してきたの。今夜中にこれをチェックして、明日のイングランド出張のついでに適当な船に予約を入れてこようと思ってる」
「じゃあ、いよいよ実行するんだ?」
 低い声でファニタが言うと、エリックの眼が輝いた。ファニタはじろりと彼を見やる。
「なんであんたがそんなうれしそうな顔するのよ」
「だってうれしいじゃないか。夢がかなうんだぜ、ファニタ」
 別にあんたの夢がかなうわけじゃないでしょ……そう言ってやろうかとも思ったが、言ったところで無益なことを思い出してファニタは口をつぐんだ。そんな彼女のことなど知らぬげに、エリックは言葉を続ける。
「なあファニタ、向こうについたら手紙をくれないか?」
「手紙? なんで」
「どんなところか知りたいんだよ、新大陸って。俺はほら、行けないから」
「…………」
 本当はそんなことはしたくなかった。手紙など出せば父に居所が知れるし、そうなったらなにをされるか分からない。あの父のことだから、草の根分けても探し出し、連れ戻して監視つきで今度こそアル・ソフィアに放り込むといったこともやりかねないのだ。
 だが、好奇心に満ちた彼の瞳を見ているといやとは言えなかった。
「分かったわ、出す」
 渋々ファニタがうなずくと、エリックは本当にうれしそうな顔になった。見ているほうまで幸せになるような笑顔、という言葉が彼女の頭をふとよぎる。
「だから、そういう顔すんのやめてくれない」
「あ、ごめん。気に障ったか?」
「……いいわ、もう」
 いつの間にか、セニャーウィンのパン屋が前に見えていた。それに気付いたエリックは「ちょっと声をかけてくる」と言い残して走っていく。その後ろ姿を見ながら、ファニタはふと考えた。
 彼もエンブリアに連れて行けたら、どんなもんだろう?
 もちろん、不可能なことは分かっている。虚弱なエリックの身体が、厳しい船旅や環境も気候も違う新大陸での生活に耐えられるわけがない。この生まれ育った街にいるからこそ、彼はどうにか人並みの生活が送れているのだ。だが……
 ばーちゃんだったら連れていくだろうか。たとえ倒れると分かっていても、彼のあの眼の輝きのためなら。
 ……エリックがパン屋の前で手をふっていた。ファニタはそんな思いを頭から振り払い、ゴーレムを伴って近づいていった。

 ファニタはもともと小娘版エーベルバッハ少佐(『エロイカより愛をこめて』参照)の予定でした。この話もそのイメージで書いています。
 実はエリックはこの半年後病死しています。が、あまりに可哀想なんでそのへんのことは文章にしていません。