ある日のライナス ![]()
『望郷』に出ていたライナスを永沢さんが気に入り、もう1編書いてくれました。 「うう、生き返るなあ」 暖炉の赤々とした炎に手をかざしながら、ライナス・エンフィールドは幸せそうな溜息をついた。ついさきほどまで、氷の精獣フェンリルの巣かと思えるほどに冷え切っていた部屋も、いまは春先のニューアーク程度には暖かくなっている。 騎士団での仕事を終えて帰宅する彼を待っているのは、常に誰もいない真っ暗な部屋だ。したがって、いまだ独身である彼は、帰宅後、第一の日課として暖炉に火を入れることを習慣づけている。なにせ、これをしないことには分厚いコートの襟元をゆるめることすらできず、部屋の空気が温まるまで家の中だというのにほとんど立ち上がった熊のように着膨れた格好をしていなければならないのだ。まぁ、生家を出て一人暮らしをはじめてからこちら毎年のことであり、いまさら面倒がることでも恥ずかしがることでもない。 充分に部屋が暖まるのを待って、ライナスは次々と衣服を脱ぎ捨てていった。 まず丈の高いボアの帽子を脱ぎ、蒸れた亜麻色の髪をひとゆすりして分厚い革の手袋とその下の布手袋を放り捨てる。表地に羊革、裏地にカモシカの毛皮をつかったコートを無骨な樫の椅子にひっかけると、ようやくカスケード騎士団親衛隊のお仕着せである黒い革の胴丸が外気に触れた。カスケード騎士団の制式な鎧は、隊によって色や紋章の異なる革鎧ということになっている。勇猛をもってなるこの国の騎士団が、強靭な板金の鎧を制式採用していない理由は多分に実利的なものだ。厳寒時に吹雪けば体感温度にして氷点下40度以下にもなるカスケードで、熱伝導のいい金属鎧などを制式にしようものなら、騎士の外征はその数だけ氷の彫像をつくることになるだろう。生活に余裕のある洒落者が火のイデアをまとわせた豪奢な板金鎧に身を包んでいることは少なくないが、少なくともライナスという人物について言えば、彼はそういうタイプではなかった。 「おや?」 その胴丸もいそいそと脱ぎ、部屋着のガウンに袖を通してベッドの脇に置いた小さな火酒のツボへと手を伸ばしたとき、ライナスはようやくテーブルに小さな籠が乗っていることに気がついた。 「姉さんが来てたのか」 籠の中には、数個の凍りかけた果物のとハムの塊が入っていた。 姉のルーシーはすでに結婚して家をでているが、平民でありながら王弟殿下にくっついて身分不相応な階級にまで出世してしまった弟の身を案じ、ときおり様子を見に来てくれる。 籠の脇に、二通の手紙が置かれている。 おそらく、ルーシーが顔を出したときにはすでに届いていて、差し入れと一緒にテーブルに置いといてくれたのだろう。 片方は、差出人の名がチャーリー・ブラウンとなっていた。 まだご無事らしいな、とつぶやいて手紙を広げ、酒ツボとハムに交互に口をつけながら読み進めていたライナスの眉間にふとシワがよる。 カスケード王国王弟マーク・チャールズ・ケンドール――またの名をチャーリー・ブラウンは、遥か遠いエンブリアの地で機獣としてグリフォンを入手し、これにライナスと名をつけたらしい。 『君が間近にいるようでとても心強い』 そうまとめられた手紙に、ライナスは小さく舌打ちした。 王弟という、カスケードでもっとも頂点に近い立場にいる彼にかくも気にかけられているという事実。それは平民として栄誉であり、友人として嬉しくもあるが、よりによって畜生に名前をつけるというのはいかがなものだろう。 しばし、不機嫌な苦笑とでもいうべき表情を浮かべていたライナスは、すぐに肩をすくめてハムを大きくかじり取った。 実をいうと、彼にもチャーリーに対する負い目がある。 別れ際に頼まれた留守中のフォローのことだが、これがまたチャーリーが夢想だにしていないだろう状況になっているのだ。 話は、チャーリーがこっそりとカスケードを離れたその翌日にまでさかのぼる。 その日、肉親である国王にも無断で国を出て行った王弟の不在をどう隠したものかと頭を悩ませながら騎士団の詰め所に出勤したライナスは、そこで子爵位をもつ年若い騎士のひとりに声をかけられた。 彼は、チャーリーが騎士団長を辞する直前、小規模な山賊を一人で退治したという功績から大幅な加増を認められた人物だった。 是非、マークにお会いして直接に感謝の念を伝えたいという子爵に、ライナスは軽く顔をしかめた。 少し早すぎる。昨日の今日でまだ何も考えていない。今日、一日かけてゆっり考えようと思っていた矢先のことで、彼はとっさの口からでまかせで相手を説得してしまうようなスキルは持ち合わせていなかった。 だが、何も言わずに背を向けるわけもいかない。 ライナスは目を白黒させて必死で頭を回転させた。 「で、殿下は……ここしばらくは誰にもお会いになりますまい」 丁寧な口調でライナスは言った。 本来、彼のほうが騎士としては上位にあり、敬語を使う必要などまるでないのだがそこは平民の天性。まして王弟の威光を借る狐とは見られたくない。そんな次第から、ライナスはマークにいくらからかわれても、貴族を相手にすると時にはことさらへりくだった話し方をする。当の貴族の間では、それもまた賛否両論のもとになっているのだが、目の前の子爵のような若い騎士は、『腰の低い隊長』としか見ていないようだ。 「しばらく、ですか?」 「は。おそらく1年くらいは」 「い、1年!?」 やっとの思いでそれだけ言った彼を、子爵はけげんそうに見つめた。 ライナスとしては、そのまま『そうですか』と立ち去ってくれることを期待していたのだが、子爵は理由の説明があるとでも思ったのか、まだ目の前に立っている。 こうなると、隠し事のある人間というのは弱い。 自分の秘密から相手の目をそらしたまま話を終わらせるため、次から次へとネタをでっちあげなければならなくなる。ライナスもその例には漏れなかった。 「ええと……実は昨日から調をくずしておいでのようでしてね。どうも長患いになりそうでして」 「なんと!? ではお見舞いも兼ねたものを用意せねばなりませんな」 「いや、それが……」 「まさか、流行り病なのですか?」 「い、いや、そういうわけではないのですが……いささかその、いろいろと殿下にとってよろしくないこともありまして」 「はあ?」 「騎士の風聞としてですな、なんというか人に顔を合わせにくいらしく……」 もともと、ひたすらに実直で口が堅く、そのうえ腕も立つという理由で親衛隊のトップへと登りつめたライナスである。しどろもどろにどうとでもとれる言質を並べ、どうにか煙に巻いた子爵から解放されたとき、彼の背中はびっしょりと汗に濡れていた。 (……破傷風だな) その直後、自分の執務室に飛びこんで半日ばかりじっくりと考え込んだライナスは、子爵との会話との整合性を図っているうちにそういう結論に達した。 自宅で軽く馬を走らせていたところ、ちょっとした不注意から落馬して負傷し、そこから悪い風が入ったせいで高熱を出している。骨も折れていて何があったか一目瞭然であるため、騎士としてこれを恥じた殿下は完治するまでは人前に出ないことにした。 (この線なら、まぁ人前に出ないことも納得させられるだろう) とにかく、あまり話を大きくして国王陛下や諸外国の大使にまで聞こえたりすると、これはこれで厄介なことになる。ライナスとしては、ちょっとした事故をマークがひたすらに恥じ、人前から姿を隠しているというレベルの話が望ましい。 「よし。あとはこの噂を適当に秘密めかして広めれば……」 早速、ライナスは親衛隊の騎士を相手に『口をすべらせる』べく執務室を出た。 しかし、事態はすでに手遅れになっており、彼が途方にくれて頭を抱えるまでものの10分とかからなかったのである。 「いくらなんでも、梅毒ってのはちょっとなあ」 このことを思い出すと、ライナスは自分の胃に鋭い痛みが走るのを感じる。 一応、くだんの子爵の名誉を守るためにも言及しておくべきだろうが、この話は彼が広めたものではない。 彼は、チャーリーに会うことができず、ライナスはその事情を知っているらしいのだがはっきりとは教えてくれないとこぼしただけだ。 それで、面白半分にふたりの会話の中から本当の理由を検証していた騎士たちのうち、特に遊び人としてしられている面々が『性病ではないか』といいだしたのである。 実際、マーク・チャールズ・ケンドールがときおりお忍びで町に出ていることは、ちょっと気の利いたものなら誰でも知っている公然の秘密だ。 そんな折、タチの悪い女に手を出して病気をうつされたのではないか。 彼らはそんなことを言い出したのだった。 これを裏付ける話もないではない。 まず、チャーリーは女性に対して実に淡白である。裏を返せば、不自由しない程度に女性と関係を持っているに違いなく、宮廷近辺に浮いた話がない以上、外部で『処理』しているとみるのが妥当だろう(実は『本当に』淡白なのだが、人間というものは自分より欲望の希薄な存在というものを実感として理解しがたい)。 そして誰にも会わないというのは、外見からしてそれとわかる症状が出ているからに違いない。例えば、その手の病気の中でも梅毒の症状は独特で、病状がすすむと耳や鼻、指といった末端部分が膿み腐れてしまう。病気の治療とは別に壊死した部分も治さなければならないわけで、完治させるまではなかなか外には出れまい。 確かに、街の女を金で買って性病に感染したとなれば騎士として不名誉であり、誰とも会わず長患いになりそうな体調不良というライナスがわずかに与えた言質も完全にクリアする。そんなわけで、マーク・チャールズ・ケンドールはすっかり梅毒もちにされてしまったのだった。 また、ゴシップやスキャンダルに目がなく、聞いた噂に尾ひれどころか胸びれ、背びれまでつけて広めて回る輩はどこにでもいる。その結果、 『王弟殿下、梅毒に感染して引きこもり』 という一大ニュースは、瞬く間に広まっていった。 もちろん、まずいところの耳に入れば不敬の罪状で告発されかねない醜聞である以上、おもてだって語られることはない。しかし、原生林の山火事が地下を通って思いも寄らぬところに飛び火するように、この手の噂はどこまで広がっていくか知れたものではない。もしも国王や外国に知られるようなことがあれば、その時はマークの不在も明らかにせざるを得ず、ライナスもなんらかの処分は免れないだろう。 自分のことはいい。もともと平民としては過剰な出世だったのだ。すべての職権を剥奪されても、それは元来の彼が送るべきだった人生に戻るだけのことだ。マークの期待に応えられなかったことには心が痛むが、別に実害があるわけではない。 問題はマークの身柄である。一国の、それもアメリカ大陸において北の雄国としてしられるカスケードの王弟殿下が単身異郷で隠密活動を行なっていることがばれたら、どんな陰謀が張り巡らされるか知れたものではなかった。 だが、どうもマークとライナスは不思議な強運に恵まれているらしく、このスキャンダルは思いもよらない展開を迎えることになる。 「騎士の方、できれば親衛隊の人に殿下のことで話があるんだけど」 その女性が、騎士団詰所の門前に立ったのは、例の醜聞が広まりだしてから一週間ほど経過した時期だった。 ちょうど、なんら有効な手を打てずに悶々としていたライナスが、エンブリアに出かけてマークの前で腹でも切ろうかとまで思いつめ、目の下に黒いクマを浮かせて幽鬼のように執務室をうろうろしていたときに、彼女は来たのだ。 王弟殿下のことで話があるといった女を、ライナスはふたりの騎士に同行させて自分の執務室に呼んだ。 このふたりというのはつきそいである。 騎士道のいまだ華やかなりしカスケードでは、それなりに地位のある男女が一室にふたりきりになるようなことはめったにないとされる。無論、一室にふたりでいる男女が即座にふしだらな関係になるといったものではないが、そのあたりは騎士道における約束事だ。 おまけに、女がマークについて話したいとなれば、なるべくライナスを含む複数の人間で聞くのが得策というものだろう。さらに事態が引っかき回されては、いいかげんライナスの胃袋に穴があいてしまう。 「で、話というのは?」 「あたしが、殿下に病気をうつしたんだと思うの」 アン・マリー・ニーヴンと名乗った女は、ライナスの問いにずばりと答えた。 波打った黒髪を腰のあたりまで伸ばし、けばけばしい赤い服とどぎつい化粧の目立つ、ひとめで娼婦か酒場女とわかる外見をした女だ。瞳に猫のしたたかさをたたえ、口元にはキツネの狡猾な笑みが浮かんでいる。おまけに物怖じしない性格をしているようだ。よりにもよって親衛隊の隊長とその側近を前にし、彼らの主筋である王家の人間のスキャンダルを裏づけしようというのである。ヘタをすればそのまま逮捕、投獄されて闇に葬られても文句の持って行きどころがないわけで、よほどのバカか肝の太い人間でなけれぱやってみようと考えることもしないだろう。 騎士たちは無言でアン・マリーを見つめた。 ただ、ライナスの沈黙だけは、他のふたりのそれと性質が違っている。彼だけは、マークが病気になどなっていないことを知っているのだ。 (なんのつもりだ、この女) ライナスは目を眇めてアン・マリーの表情を探ったが、何も見てとることはできなかった。 「どういうつもりだ?」 ライナスの代わりに、別の騎士が尋ねた。 「殿下は、あたしを助けてくれたのよ。それなのに、なんか街じゃ殿下が色ボケたみたいに言われててさ。あんまり腹が立ったから、ちょっと言ってやろうって」 「は?」 自分はさぞ間抜けな顔をしているのだろうと思いながら、ライナスは首をかしげた。女はマークのスキャンダルを利用して何かをしようとしている。だが、王家を強請ろうとかそういう害意があるわけではないらしい。 「とにかく、続けたまえ」 まずは相手のカードを全部さらさせることだ。 そう考えたライナスは先を促した。自分にこの手の駆け引きの才がないことは、先の一件で骨の髄まで痛感している。よけいな手を考えるより、まずはすべてを知るべきだった。 「実は……」 アン・マリーが語ったのは、次のようなマークとの馴れ初めだった。 その時、彼女はガラの悪い男数人に引きずられて、裏路地の壁に身体を押しつけられていた。細い首には怒りに燃えた男の手が回され、しまるかしまらないかといった力で彼女の動きを封じている。 男たちは、アン・マリーに対して激怒していた。 彼女に梅毒を移されたと信じているのだ。 アン・マリーにも覚えがある。彼女は、自分が病気持ちであることを知っていた。だが、カリブで海賊に襲われた船から身一つで逃げ出し、身体を売って日々の生活費を稼いでいた彼女は、商売をやめれば餓死するしかないのである。だから、ひとつところにとどまらず、アメリカ大陸を転々としていたのだ。 カスケードまで流れてきたのは初雪が舞うカスケードの晩秋のことで、雪のせいで出られなくなった彼女は、ここに来て初めてどじを踏んだ。客の何人かが発病し、落とし前をつけさせようとアン・マリーを誘拐同然に裏路地に引きずり込んだのだ。 商売に差し支えるから顔だけは殴らないでくれと哀願するアン・マリーを男たちは冷笑した。明らかに、彼らはアン・マリーが二度と商売が出来なくなることを望んでいる。人数は4人、全員が一般人らしいが彼女も異能者ではないので別に有利な条件ではない。うちふたりがアン・マリーを抑え、ふたりは路地の前後を固めているため、逃げようとしてもどちらかの男に捕まえられてしまうだけだろう。 ひとつ舌打ちしてアン・マリーが覚悟を決めたとき、ひとりの騎士が路地の向こうから声をかけてきた。 それがマークだった。 「殿下は、あたしを助けるために、ホントに病気だったあたしを抱いてくれたのよ」 ライナスたちを前に、アン・マリーは瞳をうるませて話を終えた。 表立ってこんなことをいえば、不敬罪で告発されても仕方がない。それでも、恩人への誹謗をほっかむりして無視するような恩知らずにはなりたくないといった彼女を、ライナスたちは沈黙をもって見つめている。 ライナスを除くふたりの騎士は、すっかりアン・マリーの話に感動していた。やはり、彼らの領袖である王弟殿下は、欲ボケして病気にかかり、それを恥じて姿を隠してしまうような男ではなかったのだ。そんな安堵と、あえて身の危険も顧みずに告白を決意した女の勇気に対する崇敬の念が、ふたりの脳から疑うという機能を完全に奪い去っていた。 ライナスもまた、目をまたたかせてアン・マリーの顔を無言で見つめていた。 頭の中が完全にこんがらがっていて、言葉という言葉をすべて忘れてしまったようだった。 マークの醜聞は一気に美談となり、さきのそれが熱帯雨林の山火事とするなら、今度は晩秋の平原に油をまいて火をつけたような勢いで広まっていった。 ライナスに同席していた騎士は、ほとんど有頂天になってアン・マリーの告白を広めたらしい。おまけに、カスケード王家というのはもともとカリスマ性に非凡なものをもつ一族である。さきの醜聞もマークの株をあげるいい反動となり、噂によると王都にいる戯作者の何人かが、登場人物のすべてを仮名にして街娼と騎士が互いに一目惚れする恋物語に仕立てた脚本を発表するらしいという騒ぎになった。 そんな空気がそこかしこに感じられる王都の街を、ライナスはひとりで歩いていた。 騎士団の制式鎧に重そうなマントを重ね、腰にはエストックと呼ばれる刺突専用の剣――というより杭状の武器をさげている。 右手には、住所の書かれた紙片を握っている。帰り際、アン・マリーが自分に用があったらここに来いと残していったメモだ。そこに書かれた区画は王都の城郭部分に入ったばかりの宿場町、つまりそこそこ金のある旅人が多い場所である。街娼の根城としては納得のいくところだろう。 だが、ライナスは何かひっかかるものを感じていた。 アン・マリーの狙いがさっぱりわからない。 とにかく、マークは梅毒になどかかっていないのも関わらず、彼女は自分がうつしたのだという。それで王家を強請りでもするのかと思えば、逆に彼らの評判を上げる始末だ。あわせて彼女自身も有名になったことを考えれば宣伝ととることも可能だが、たかが街娼のとる宣伝戦略としては危険が大きすぎる。 考えあぐねて、ライナスは彼女を訪ねることにしたのだった。 「この辺りなんだがな」 石造りの二階建てが並び、広い石畳の道路を馬車と旅人が行き来する一角に、彼は立ち止まって顔を上げた。その鼻腔をうまそうな臭いが刺激する。ちょうど時刻は夕暮れどきで、たいていの宿屋がその晩の食事の仕上げにとりかかるころだった。また、一階を酒場や食事処として経営している建物は、早めの夕食や晩酌としゃれこむ面々がひっきりなしに出入りしている。 買い物籠をさげた母親にじゃれつきながら甲高い声で話していた子供のひとりが、ライナスの膝に当たった。 謝る母親に鷹揚に手を振って、ライナスは『こんなところに立ち止まっていても周りの迷惑』と再びゆっくりと歩き出した。 「さて、どこにいるものやら」 裏路地をひょいひょいと覗きこみ、彼は十数本めの路地でようやく目当ての相手をみつけた。 「しつこいわね!」 四人の屈強な男に囲まれながらもひるんだ様子はまるで見せず、アン・マリーは昂然と胸をはって逆に相手をにらみ据えた。 「借用書の分は返したでしょ。その先に稼いだ金は、そもそもあたしのもんじゃない!」 「世の中にゃ、利子ってもんがあるんだよ!」 男たちのリーダー格らしい、毛むくじゃらの大男が怒鳴った。真冬だというのに、革のジャンパーの前を開けたままにしている。その下にきているシャツも襟は大きく開いているのだが、その下からのぞくほとんど下着のように密生した胸毛のおかげか、あまり寒さを感じてはいないらしい。 「どこの世界に、年率400パーセントなんて利子があるのよ!」 「てめぇの親父がそれで契約したんだ」 「嘘ばっか。後で勝手に書き換えたんでしょ」 「なんだと!」 男たちが色をなしてアン・マリーに詰め寄る。 熊のような手に細い肩をつかまれて、さすがに彼女の目にも怯えが走った。 「な、なによ。殴る気? 顔なんか殴ったら、もうあたしを売って金をかせぐなんてできなくなるんだよ?」 だが、彼女は戦うことまであきらめたわけではなさそうだ。顔は血の気が引いてほとんど青白くなり、膝は傍から見てもわかる程度に震えているが、目だけは爛々と輝いて圧倒的な優位にある男たちの凶悪な視線を跳ね返している。 「だいたい、あんたたち、誰に手を出してるかわかってんの? あたしに手をだしたらこの国の騎士団が黙ってないよ。なんたって、あたしはマーク王弟に抱かれた女なんだからねっ」 「んなヨタ話、誰が信じるかっ!」 ついに堪忍袋の緒をきってたらしい大男が拳を振り上げるのと、路地を見張っていた仲間が彼の背をつつくのとはほとんど同じタイミングだった。 見張りの男の顔は、まっすぐにライナスを見ている。 ライナスも、別に姿を隠そうとはせず、まっすぐにアン・マリーのほうに歩み寄っていた。その頬に薄い笑みが浮かんでいる。苦笑だった。 「いいタイミング、というべきなのかな?」 「なんだ、てめぇ!」 あまりごつくはない、気のいいロートルの衛兵にも見えるライナスの姿を侮ったか、大男が恫喝の声を上げる。さすがに堂に入ったもので、気の弱い人間なら一発で腰を抜かしそうだが、あいにくライナスはそういうタイプではなかった。 「いや、その女性に用があるんだが」 「はっ」 男のひとりが嘲笑した。 「いい年した親父は家に帰って古女房の尻でも撫でてろ。この女は俺らが先客なんだよ」 「それをいったら、俺は昨日からの予約だよ」 あくまで涼しげに歩を進めるライナスに、男たちはアン・マリーを捨てて手に手に武器を抜いた。あくまで悠揚迫らぬライナスの態度に、ようやく何かを感じ取ったらしい。 わずかに男たちの気がなえたタイミングを見計らって、ライナスは名乗った。 「カスケード騎士団親衛隊長、ライナス・エンフィールド。そのご婦人に急ぎの用があるのだ。できれば順番を譲っていただきたいのだが」 言いながら、マントを左手に巻いてエストックを抜き放つ。マントを盾にしているような形だが、あいにくこのマントはただの布ではない。何本もの鎖を編みこんであらゆる武器を払いのける強靭さをもち、さらに裾に錘を仕込んでいるため、これで痛打すればなまじな棍棒より威力がある。さらに、マントで動きを封じてエストックで突き殺すというのがライナスの戦闘スタイルとしてある。古代の剣闘士の戦術からヒントを得た戦い方で、相手が人間なら1対1でそうそう引けを取るものではない。実際、純粋な剣の腕の良し悪しという話なら、ライナスはマークとの十本勝負で七本まではとる自信があった。 それがわかる程度には、男たちも場数を踏んでいたのだろう。 いや、それ以上に、実際にアン・マリーの言うとおり騎士団の人間が現れたという事実が彼らの戦意をくじいたのかもしれない。 いずれにしても、男たちはライナスとアン・マリーをその場に置いて立ち去ったのだ。 「ふう」 武器をおさめたライナスは、黒い眼をまんまるくしているアン・マリーに向き直った。 「……ホントに来てくれるなんて思わなかったわ」 「そうだろうな」 また、ライナスが苦笑する。 「例の件について本当のことを聞きたい。いい場所はあるか?」 「ちょ、ちょっと待ってね」 アン・マリーの声はひどく下のほうから聞こえた。路地にしりもちをつき、両膝の間に頭がもぐりこんでいる。 「安心したら力が抜けちゃって……」 声と肩が震えていた。 とどのつまり、アン・マリーはマークに抱かれてなどいなかった。 それどころか本人も梅毒などもっておらず、いまは娼婦ですらない。 彼女の本名はマリエル・レイヴン。 もとはといえばカリフォルニアで零細の商社を営んでいた一家の娘である。祖父の跡をついだ父親はマジメ一辺倒の男だったのだが、ドライドン一家の賭場に入り浸るようになって借金を増やし、ついに当時は12歳ほどだったマリエルを初物代もコミで売り飛ばしたらしい。 その後、彼女は娼婦としてカリフォルニアの北部を渡り歩いていたが、ついぞこの間、客のひとりとねんごろになったフリをして足抜けしたのだという。 「別に本気で惚れてたわけじゃないからさ。すぐケンカわかれしちゃったんだけどね」 さばさばとマリエルは笑った。 とにかく、これで自由を得ることを成功したと思いきや、ドライドン一家のほうは執拗に彼女を追い続けていたのだ。理由はただひとつ、彼女が一家のもとを逃げ出す際、とんでもない大金をちょろまかしていたためだ。面子を潰されて激怒した一家の追跡を察した彼女は、ネコババした金の一部を旅費にしてカスケードまで流れてきたのである。 マークに抱かれたと嘘をついたのも、有名人になってしまえばおいそれとドライドンの手の者も手を出せないだろうと判断した結果らしい。 結果オーライではあるが、事実ドライドン一家は二度とマリエルに手を出そうとはしないだろう。なにせ、本当に彼女を守るべく親衛隊長が出てきたのだから。 「でも……」 自分の背景を語り終えたマリエルは、ライナスを見つめて首をかしげた。 「どうして、あたしの話が嘘だってわかったの?」 「ふむ」 ライナスは、マリエルの黒い瞳を見ながらすこしばかり考えこんだ。 この女だったら。 心の奥にそんな動きがある。理由はどうあれ、彼女はマークの評判を救ってくれた。すこしケレンが強いものの知恵も回るようだし度胸もある。けっして邪悪な女ではなさそうだし……なにより、彼女の立場は秘密を共有する『共犯者』として最適だった。 「これについては他言無用だ」 顔の前で両手の指を組み合わせて、重々しい声でライナスは言った。 「実は……」 ライナスは、ツボをぐっとあおって残りわずかだった火酒を飲み干すと、もう一通の封筒を手にとった。 差出人は、アン・マリー・ニーヴンとなっている。 「うちに来る手紙って、偽名ばっかだな」 つぶやきながら封を開けると、十数枚におよぶ手紙と地図が出てきた。カスケード南部からカリフォルニア、カリブへとつながるルートの要所要所を詳細にまとめた地図で、手紙には近況というよりも調査報告書のような文字が連なっている。 「むむ」 手紙を読みながら、ライナスは何度かうめき声を上げた。 現在、カスケードは対外的な軍事行動を起こすつもりなどまるでないが、もしもそのようなことがあった場合、諜報担当が感涙にむせびそうなほどにいきとどいた調査書である。陸路と海路の接続状況や、特定物資における物価の流れ、人心の様子や統治者に関する噂話など。ひとつひとつは容易に手に入る情報なのだろうが、それぞれをつなぎ合わせる手腕に非凡なものを感じさせる。諜報感覚には決して優れているとはいいがたいライナスにもわかりやすいということは、見るべき者が見ればもっと価値が出るのだろう。 だが。 「何を考えているんだ、あいつ?」 ライナスは大きく首をかしげた。 マリエルに幾ばくかの金を持たせてカスケードから送り出したのは、一に彼女の安全を保証するためである。現在、王都こそがもっとも安全な場所となっている彼女だが、この先もそうとは限らない。ならば、王都が安全であるうちに新天地に逃がしてしまえば、よりその行方はつかみづらくなるはずだ。 しかし、どうもマリエルは違うことを考えているらしい。 王弟不在という重大情報と、ライナスの指示でカスケードを離れるという事実。この二つは彼女の中で『マークの後を追ってカスケードの間諜として活動する』に変換されてしまったようだ。 このままだと、次はエンブリアに向かうことになるのだろうが……。 「まぁ、間諜としては殿下より役に立つだろうな」 ライナスは几帳面に手紙をたたんで鍵つきの引き出しに放り込むと、ランプを吹き消してベッドの中にもぐりこんだ。 「……しかし、梅毒なア」 頭の上まで布団をかぶって、もう一度ひとりごちる。 「さて、帰ってきたらどんな顔をされることやら」 そのときのチャーリーの顔を想像してひとしきり笑ったライナスは、そのまま深い眠りに落ちていった。 明日の朝も早い。 戻る |