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![]() ミューラァのこと ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]()
シド・ミューラァ。ククト第3軍ククト星師団特務部隊第2特務別働隊隊長。少佐。23歳。 クレアド星から持ち出され、13人の子供たちによってククト星に持ち込まれた再生装置(リフレイドストーン)を捜索、奪還するために編成された特務部隊の指揮官。機動兵器の腕利きパイロットでもあり、自ら新型機デュラッヘを駆って、相手が子供と知らないまま13人を追いつめていく。 地球人の母親とククトニアンの父親を持つ混血。性格は根暗でやや神経質。反面、負けず嫌いの直情型で、これと思ったことにはとことんまで執着する。プライドが高く頑なだが、実はそれはコンプレックスの裏返しでしかない。 育った境遇のためか、ことさら偽悪的にふるまったりコミュニケーションを拒絶したりすることで他人との間に壁を作り、自己を防衛する傾向がある。が、傷つけられる痛みを知っているためか、むやみに人を傷つけるような言動に出ることは少ない。また、弱い者に対しては不器用ながらも思いやりや気遣いを見せたりする。 自分を差別する周囲や社会に対しては、憎しみとか恨みとかいったマイナスの感情はあまり持っておらず、むしろそいうった社会に積極的に参加し、その中に受け入れられたいという願望を強く抱いている。 母は地球人でベルウィック星調査隊の隊員、父はククトニアンの医師。船外活動調査中の事故で漂流した母親がククト軍に保護され、その後暮らすことになったコロニーで主治医だった父と恋愛の末結婚した。 ふたりの生活は周囲もうらやむほど仲の良いものだったらしいが、ミューラァが生まれる前に父はクレアド星調査団に派遣され、そこで地球人との戦闘に巻き込まれて死亡、母は高まる反地球感情の中、ミューラァが物心つくかつかないかの頃に政府軍に連行され、そのまま帰ってこなかった。 その後ミューラァは父の友人だったサライダ博士に引き取られたが、成長するうちに自分の出生を知り、家出同然に博士のもとを離れて軍人となった。
ミューラァの立場、行動は物語の進行によってみっつに分けられます。ここでは、それぞれの部分にどんな特徴があるかを見ていきます。 まず区分ですが、大体このような形になります。 パート1:タウト星からの脱出。ロディと出会う。(29話) パート2:リフレイドストーン奪還の特務部隊隊長として、13人を追う。(31〜39話) パート3:リベラリストの捕虜になり子供たちと接触。脱出して軍に戻るが、任務をはずされ居場所を失う。(40〜44話) ミューラァというと一般的に「混血であるがゆえに差別され、苦しんできた悲劇の人」というイメージが強いですが、実際にそれが前面に押し出されてくるのは実はパート3の4話分のみです。パート1の29話、パート2の31〜39話までのミューラァ像は、それとは全く違うものになっています。 * * * ・パート1(29話) 初登場です。ジェダさんたち囚人の決起により捕らえられていましたが脱走、ジェダさんたちの動向を探った後ククト星へ脱出していきます。 この話には、単なる「顔見せ」以上の意味はありません。物陰にひそんで13人の様子をうかがったり、ジェダさんとスコットたちの会話を盗聴したりといった描写がされていますが、これは彼が「ただのチョイ役ではない、ひと癖ありげな奴」であることを演出するためのものであり、なにかの伏線というわけではありません。 ここでのミューラァは、どこまでも冷静な、肝の据わった人物として描かれます。脱出直前、彼はロディと対面しますが、その時には銃を向けられても全く動じず「君は地球人か」「あの船(ジェイナス)に乗っているのか」と逆に質問を向けます。その落ち着きぶりは、銃を持っているくせにおびえを隠せないロディとは対照的であり、プロ(大人)と素人(子供)の間に存在する大きな格の差を見せつけています。 * * * ・パート2(31〜39話) ククト星に拠点を置く特務部隊の隊長として、13人が持っているリフレイドストーンの捜索と奪還にあたります。同時にロディの操縦するバイファムと対決をくり返し、次第にライバル的な存在となっていきます。 ここでのミューラァは、どちらかといえばセオリーどおりの悪役といった印象が極めて強くなっています。つまり、実力がありプライドも高く、執念深い。が、肝心なところでツメが甘く、常に主人公を倒すことができないといった役回りです。 リフレイドストーンの奪還が主目的だったはずが、ロディのバイファムを相手にするうちに次第にヒートアップ、とうとうロディを倒すことが目標のようになっていってしまう様は見ていてなかなか微笑ましいものがありますが、その分、部隊の隊長としては不自然な行動が目立つようになりました。物語に出ていた指揮官級の軍人がミューラァだけなら、こういった部分もそれほどおかしくは見えなかったでしょうが、中尉やローデン大佐という一応セオリーを守った指揮官がこれまで複数登場し、それなりに活躍していたために、比較するとどうも彼のありかたは幼稚でおよそその立場にふさわしくありません。 また、33話以降、ミューラァが地球人との混血だということに関するシーンが時折出てきます。が、その出し方は常に唐突であり、彼のリアクションもいまいちはっきりしないため、一体なにが言いたくてその話題が持ち出されてくるのか視聴者に伝わらず、だから何? という程度の印象に終わってしまいます。 総じて、このパートでのミューラァは人物として非常にちぐはぐでいびつなものになっています。 恐らく、これはミューラァを「ロディのライバル」と設定したことで生じたものだと思われます。 ミューラァと接するとき、ロディが背伸びしすぎているというのは良く指摘されることですが、実はミューラァのほうには全く逆の現象が生じています。つまり、ロディのレベルに合わせて彼の性格や行動が「子供化」させられているのです。 そもそも23歳(原案では33歳)のミューラァと14歳のロディでは、なにをやるにしても差がありすぎておよそ勝負にならないはずです。29話での遭遇はそれを良く表しており、説得力があります。 が、「ライバル」である以上それでは困る訳で、これより後はロディの大人化とミューラァの子供化により、ふたりの間の差を埋める方向で話が進んでいくことになりました。すでに出演が長く、大人が相手だと背伸びをする傾向が強いという認識が周囲に出来ていたロディはかろうじてこの措置に耐えましたが、新登場でまだ個性の固まっていないミューラァはまともにとばっちりを食らい、気の毒なほどいびつな人物に描かれることになりました。幸い、40話以降は「混血であるがゆえのコンプレックス」ということを前面に押し出す形で彼の性格の修正、統合がはかられたため、それなりに説得力にあるものに仕上がっていますが、もしこのまま進んでいたら、ミューラァはただの勘違いキャラクターとしてバイファムの世界から浮いたまま終わっていたことでしょう。 また、部隊指揮官というミューラァの立場も、混乱に拍車をかけるものでした。 ライバルは常に1対1で戦う必要があります(少なくとも、当時の制作側の認識としてはそうだったようです)。ですが、通常指揮官の仕事といえば部下を指揮して敵に対させることであり、自分で戦うことではありません。自分で戦おうとすれば、指揮官としての仕事をほっぽり出して戦場に駆けつけるしかないわけです。 恐らく、ミューラァを指揮官にしたのは、そのほうが“部下のメカ”をたくさん使って派手な戦闘シーンを描けるからという思惑からだったのでしょうが、結果として、全く相反するふたつの役割をミューラァはいちどに演じなくてはならなくなりました。 結局、両者の並立が不可能だと(恐らく)気付いた制作側は「部隊指揮官」と「ロディのライバル」を天秤にかけた結果、ライバル関係を描写としては優先させるようになります。が、そのために指揮官としてのミューラァの行動はボロボロになりました。彼のすることはおよそ佐官クラスの部隊長らしくない、まるで一兵卒かせいぜい下士官程度のレベルのものであり、これを見る限り、彼が解任されたのは別に混血だったからでもなんでもない、単に無能だったからではないかと思われても不思議ではありません。 * * * ・パート3(40〜44話) リベラリストの捕虜となったのを機に、ミューラァはまた大きく変わります。 39話までの悪役ぶりはわずかに面影を残すだけとなり、代わって、地球人との混血という面がクローズアップされてきます。それに伴って彼の人物像も、出生に伴う内心の痛みや悩みを押し殺しながら、表面上はあくまで強気にふるまうというタイプに変更されていきます(これにより、39話までのめちゃくちゃな言動との整合性もある程度取ることに成功しています……つまり、あんな風だったのは周囲に対する負けん気と意地だったというわけです)。 ロディとの対立関係は相変わらずですが、単なる「主人公と敵役」から、「自分を歪めてもなお周囲から認められたい大人」と「それに同情はするが理解はできない子供」という図式に描き方が変わっていきます。また、カチュアやスコットといった個々の子供たちと直接接触する機会が生まれたことにより、意外な優しさや気遣いといった部分が加えられ、たった4話の間にミューラァは驚くほど深みのある人間に変貌していくのです。 加えて、リベラリストの基地を脱出した後の運命の暗転は、新たに彼を悲劇の人物として位置づけると共に、13人――特にカチュア――との対比を際立たせることとなります。 ミューラァがこのようになったのは、カチュアを描くためでしょう。 良く知られているとおり、カチュアはククトニアンです。しかも、彼女を育てた地球人の両親はすでに死亡しています。つまり、他の12人のような「両親と会う」という最終目標がカチュアにはあてはまらないのです。 このまま進めば、ほぼ確実にカチュアは孤独な最終回を迎えることになります。必然的に、彼女には他の12人とは違う結末――恐らく、12人とは別れる結末――を用意しなくてはならなくなりますが……これまで一緒にいて当然だった13人が違う道を歩むというのは、バイファムという物語そのものを壊しかねない一大事です。下手をすれば不自然さばかりが残ってしまい、これまでせっかく描いてきた13人のドラマが興ざめな結果に終わることにもなりかねません。 そこで引っ張り出されてきたのが、地球人の血を持ちながらククト社会で成長してきたという、ある種彼女と似た背景を持つミューラァでした。「ククトニアンとして生きる」ことにがんじがらめになり、そこから抜け出すことができなくなってしまったミューラァを細かく描くことは、もしかすると、カチュアが地球に行った場合に遭遇するかもしれない運命を暗示しています。そうやって「カチュアは本当にこのままでいいのだろうか」ということを逆説的に問いかけることで、彼女が持っている「12人とは別の可能性」を浮き立たせ、それに向かってカチュアが進む道もあるということを示すのです。 そして最終的には、カチュアが他の子供たちと別れ、実の親を求めて地球人社会からククト社会へ飛び込んでいくという結末への流れを作り出したのでしす。 もともとミューラァは、一時期カチュアの兄にするという案が出ていたほど、彼女とは縁の深いキャラクターでした。自分の歩んできた道を身をもって示し、同じ道を進んではいけないと最後に言葉を残したミューラァは、そういう意味では確かに「兄」としての役割を持っていたとも言えます。
40話以降、ミューラァには何度か個々の子供たちと接する機会がありました。それぞれの子供たちに対し、ミューラァが向ける反応は微妙に違っています。ここではそれを詳細に見てみます。 ○ロディ(29,40,41話) このふたりの接触は、常に対決の様相を帯びています。どっちも言い出したら聞かない頑固な性格である上に、個人的な意地とプライドもからんでどうも収拾がつかない事態になりがちです。 ただ、ミューラァにとって決定的に分が悪かったのは、ロディが子供であるということ、自分の出生を知られているということでした。バイファム世界の絶対の不文律として、大人は子供を殺せないというものがあります。つまり、ロディが子供だと知ってしまった時点で、ミューラァはロディを問答無用でたたきのめすことができなくなってしまうのです。 さらに、最大の弱点である出生について言及されれば、彼はどうしても守勢に回らざるを得ません。しかもロディは自分では意識せずに相手のいちばん痛いところを突いてくるタチです。結果、ミューラァはいつもロディに対して譲歩を強いられ、彼に“勝ち”を譲ることになるのです。 もともとの図式が「主人公対ライバルの悪役」であった以上、こうなるのは仕方がないですが……常に頭を押さえられた形でロディと対することになっていたミューラァの姿には、気の毒なものも感じます。 * * * ○カチュア(41話) 明確にライバル性が位置づけられていたロディとミューラァに対し、カチュアとミューラァについては、出会いの鮮烈さの割にはいまひとつはっきりした関係が見られません。これは双方が、お互いをどう思っているかが明確にされないまま話が流れてしまったためです。 強いて言えばミューラァのほうに、カチュアの存在にとまどい、どう扱ったらいいか判断しかねている気配がかいま見えます。初めて顔を合わせた際、彼がことさら意地悪くふるまうのは、もちろんサライダ博士へのあてつけでしょうが、一方でそういった困惑の表れであると言えます。 これは単純に、ミューラァにとって10歳の女の子というのが未知の領域に入る生物だったから、というのが解釈として妥当なところでしょうが……あるいは、カチュアを見ることは他ならぬ自身を「外」から見ることだというのに気付いたためだったかもしれません。なにしろ、これまで“同類”を持たなかったミューラァにとって、自分を客観的に見る機会などなきに等しいものでした。ここで似たような境遇のカチュアと出会うことは、とりもなおさず生まれて初めて自分を「外側」から見ることにもなるのです。かつてなかったこの状況に、ミューラァは内心どうしていいか困ったことでしょう。 さらに、自分と似ていると思ったカチュアは、地球人の間でつらい思いをしたろうという自身の経験に基づく言葉に対し、そんなことはない、みんな仲間だときっぱり答えます。自分と同じだと思っていたのに、自分とは正反対の思いを持つカチュア。なぜ彼女がそうなのか、この時彼が驚き、不思議に思ったことは想像に難くありません。 ですが、その驚きが深く掘り下げられることはなくミューラァはカチュアと別れ、その後、ふたりの歩む道が交わることは二度とありませんでした。 せめてもういちど、ふたりが出会っていたら……そして、お互いに対する思いがもう少し明確に描かれていたら……ふたりの対比はもっと生き生きしたのではと思います。 * * * ○スコット(43話) ミューラァが唯一「普通の大人」っぽい応対をするのが、スコットに対してです。 偽悪的な言動をすることが多く、人にスキを見せるのが嫌いなミューラァにしては珍しいことです。もっとも、スコットのまるっきりの無防備さ及びあわてっぷりを見ると、そんな気もなくしてしまうのかもしれませんが……。 トイレ用具を向けられても気にもせず(当たり前ですが)、スコットが探し残したものを次々と見つけ出し、おまけにトレーラーのエンジンまでかけてやるミューラァには、41話でのロディやカチュアとの間にあったような緊張はまるでなく、無愛想ながらもマメに相手の面倒を見る頼れるお兄さんという、これまでなかった面が見られます(もっとも、41話でも人質に取ったカチュアに対しなにかと声をかけるなど、類似の傾向はあります)。 ミューラァがこういう部分を見せることができたのは、恐らく任務を解かれていたためだったろうと思われます。もし任務中であれば、彼はスコットを攻撃……まではしないにしても、少なくともあんな風に気軽に手伝ったりはしなかったでしょう。そういう意味では、いかに「軍人」という枷が彼を押さえつけていたかをこのシーンは逆説的に示していますが……その枷を彼が自覚していたかどうかは疑問です。 また、スコットのあのどこまでも世慣れない善良さ加減も、ミューラァからひと味違う対応を引き出した大きな要因であると言えるでしょう。すぐに張りあうように「僕だって」とつっかかってくるロディ、似たような境遇であるがゆえにどう扱ったらいいか分からないカチュアとくらべると、スコットの姿はいかにも微笑ましく、また、安心してつきあえるものだったのかもしれません。 スコットの前でだけは「ククトニアン軍人」ではなく、ごく普通の大人のひとりとして行動したミューラァ。案外、スコットのようなタイプが、彼もいちばん自然体で接することができる相手なのでしょうか。 * * * ○ジミー(41話) 実はいちどだけ、ジミーとミューラァは顔を合わせています。 41話でカチュアの両親の事を尋ねるためにミューラァがサライダ博士に呼び出された時、博士の部屋の前でジミーはカチュアを待っていたのでした。手錠をはめられ、銃を突きつけられてやってくるミューラァに気付いてジミーはあわてて物陰に隠れ、そっと様子をうかがいます。そんな彼には目もくれず、ミューラァは自分の脱出のことだけを考えながら通り過ぎていくのでした。 ここでのふたりの出会いは文字通り「すれ違った」だけであり、ロディやカチュア、スコットの時のように強い印象を残すものではありません。ですが本来、ジミーの反応こそが、“自分たちを追い回した人”であるミューラァを目にした時に子供が取るだろう自然なものであることは明白です。そういう意味から言うと、ロディやカチュアの初対面の時の平然とした態度は、ミューラァとの対話をスムーズに進行させるためとはいえやや疑問に感じます。どちらかといえば、キワモノ的演出といった評判の高い43話でのスコットのほうがジミーと近い次元に基づいたものであり、普通であると言えるでしょう。
良く言われるミューラァが受けた差別、それは一体、どのようなものだったのでしょうか。 光人社のNF文庫『空のよもやま話(わちさんぺい著)』という本の中に、こういうエピソードがあります。 太平洋戦争中、陸軍航空隊で軍属の整備士として勤務していた筆者は、ある時、飛行機に向かう若い戦闘機パイロットと出くわしました。敬礼しながら階級章で中尉であることを確認した瞬間、筆者はその人の青い目と、日本人とは違う彫りの深い顔立ちにはっとします。 あっ。外人だっ――と、思わず声をのんだ。いまの日本が、国をあげて戦っている敵の目の色……。瞬時ではあったが、それがぼくの脳裡をかすめたことは否めない。(原文より) この中尉は、日本人のお父さんとアメリカ人のお母さんを持つ人でした。 ミューラァが受けた差別というのも、つまりこういったものだったのだと思います。彼を見た瞬間、気付いてしまう自分たちとの違い(実際にはミューラァに一般的なククトニアンと外見的な差があったのか、それは分かりませんが)、その違いが「敵のもの」であるという不快感と嫌悪感……意図的でないだけに一層始末が悪い、そういった感情にミューラァはさらされてきたのでしょう。 これが意識しての差別行為なら反発や仕返しをすることもできます。しかし、意図的でないものに対しては黙って耐えるしかありません。41話で彼がもらした「俺がどんな思いで生きてきたか――」という言葉は、まさにそういった意図的でないものを相手にし耐えてくるしかなかったミューラァのやり場のない感情そのものだったのでしょう。 では、ミューラァにとっては、どのように扱われることがいちばん幸せだったのでしょうか。 彼自身は、自分はククトニアンだと言い、そう見られることを望んでいるようです。実際問題として「地球人」はククト社会で生きていけない以上、これは無理からぬことではあります。 それでは、周囲の全員が彼をククトニアンと認めれば、ミューラァは幸せになれたのでしょうか。 結論から言えば、それはイエスでもありノーでもあります。確かに、周囲が地球人の血を無視してくれれば、彼にとっては人生はずっと楽になるでしょう。軍人などという過酷な職業を選ぶ必要もなく、思うままに生きていかれたかもしれません。 しかし、現実にはミューラァの半分は地球人です。周囲が彼をククトニアンと見ることは、その事実と矛盾することになります。そして恐らく十中八九、彼の内部では、矛盾を解決しようという葛藤が生じます。 ですが、その矛盾は解決不能な矛盾です。自分の中の地球人の血を消すことはできませんし、「地球人」はククトでは暮らせない以上、周囲に対して自分が半分地球人であることを認めてくれと言うわけにもいきません。結局、ミューラァはここでもまた悩み苦しむしかないのです。 自分自身をククトニアン、地球人という枠でしか捉えられないミューラァ……もし両親が生きてさえいれば、あるいは彼に対して「ククトニアンでも地球人でもない、自分という生き方」を教えることができたかもしれません。 ですが、ミューラァが物心ついた時には両親はすでになく、サライダ博士のもとで彼はククトニアンか否かという価値観しか知らずに育ちました。そしてそれは彼を「自分はククトニアンでなくてはならない」という強迫観念にも似たものに駆り立てていきます。 もしかすると、ミューラァにとっては、混血という以上に両親を早く亡くしたことのほうが不幸だったのかもしれません。
そういえば、そもそもなぜ、ミューラァは混血だったのでしょうか。 カチュアとの対比ということならば、何かの事情でククトニアンに育てられた地球人ということでも良かったはずです。地球人でありながらククト社会に溶け込もうとし続け、それゆえにククト以外に生きる場所を知らないという人物ならば、ミューラァとほぼ同様の葛藤を出すことは充分に可能です。 また、シチュエーション的にも「地球人がこともあろうにククト軍人として子供たちを襲う」というものは、なぜ? という疑問と同時に印象の強いものになることでしょう。そして、彼がそこにいる事情説明も含めてもう少し早く内面的な部分に踏み込む必要が生じ、それに伴ってカチュアとの比較ももっと分かりやすい形で提示できたことと思います。 異星人との交雑というのは、常識的に考えて無理のありすぎる話です。なにしろ、同じ先祖から発生し、遺伝上の差が確か2%だか4%だか程度のチンパンジーとすら交雑不可能なのに、いくら外見が同じとはいえ、全く異なる発生過程をたどり進化してきた生物同士が自然の状態で子供を作ることなどできるわけがありません。 (ただし、遺伝子操作を使えばできる可能性はあります。父親が医師だということを考えると、そのつながりでミューラァの誕生に人為的な作業が介在した可能性は否定できません。地球人とヴァルカン人のハーフとして有名な『スター・トレック』のスポックも、生まれる過程には人工授精と遺伝子操作がからんでいます) 制作側もその不自然さを考慮してか、実は地球人とククトニアンには進化の過程で同じ古代宇宙流浪民族の血が入っており、そのために遺伝的な差異が消失したという裏設定を作っています。が、いくらこの流浪民族の遺伝子が柔軟性に富んでいたとしても、全くベースの違うふたつの生命体を混血可能なまでにできるとは考えられません。 そういった基本的な部分での矛盾を作ってまで、なぜミューラァを地球人とククトニアンとの混血にしたのでしょうか。 実際のところ、彼が混血だったのは、視聴者に受けそうなドラマティックかつ悲劇的な設定を狙っただけというのが真相なのかもしれません。ですがその一方で、もしかすると、単純に「カチュアの同類」というだけでない、なにか別のものを描きたかったがために、ミューラァを「ククトニアンに育てられた地球人」ではなく、「ククトニアンと地球人の混血」としたのかもしれないという気もします。 バイファムには、実は太平洋戦争時の様々な悲劇がメタファーとして織り込まれているのは良く知られている話です。例えば、ジェイナスは開戦後命からがら日本へ逃げ帰ってきた引き上げ船、カチュアは中国残留孤児、といった具合に。 そしてミューラァには、アメリカで差別を受けながらも米軍の一員として戦争に参加した日系2世、3世の人々が投影されていると思うのは、考えすぎでしょうか。 これらの人たちは、当時国籍、言語、生活、すべてが“アメリカ人”であったにも関わらず、ルーツが日本人というだけで敵と見なされ、激しい差別を受けました。実際には、彼らのほとんどが「祖国アメリカ」への高い忠誠心を持っていたのですが、アメリカはそれを認めなかったのです。 そんな中、軍人や軍属への道を歩んだ日系人は、自分たちが“アメリカ人”であることを実力をもって示すべく奮闘しました。中でも有名なのは日系人志願兵だけで編成された第100歩兵大隊と第442連隊で、彼らはヨーロッパの激戦地を転戦、米軍最強と謳われるほどの活躍をしました(余談ですが、第100大隊がイタリアに派遣された際一緒に行ったのは、レッドブルと呼ばれる師団でした)。が、一方で死傷者は米軍のどの部隊よりも多く、1回の戦闘で90%以上が死亡または負傷したこともあったそうです。 しかも、これだけの犠牲を払っても、アメリカ人による日系人差別は戦後長い間続いたのです。 もちろん、こういった日系の人々とミューラァをいきなり同列に並べてしまうことは危険です。ですが、バイファムの原作者であり、監督であった神田氏は、この作品に自分自身の戦争体験――大陸からの引き上げを投影していると話しています。そういった事情を考慮した時に見える構図は、ジェイナス(地球)=日本、ククト=アメリカであり、ミューラァはアメリカにもあった戦争の悲しみ……対戦国の血を持つがゆえに“敵国人”として差別され、悩み苦しんだ日系の人々のメタファーだったとしても不思議ではありません。 そしてその場合、必要なのは、やはり「ククトニアンと地球人の混血」という設定だったのだと思います。 カチュアを見ていると、自分を地球人だと見なすシーンがいちどもないのに気付きます。自分を育てた両親を本当の親だと思うとは言いますが、それはあくまで「両親の子供」という意味であり、自分も両親と同じ地球人だということではありません。それはとりもなおさず、カチュアが自身の本質はククトにあり、地球ではないと考えていたことを表します。 同様に、もしミューラァが「ククトニアンに育てられた地球人」だった場合、いくらククトニアンらしくふるまおうとしても、その根底にあるものはやはり「地球」になることでしょう。そして、カチュアが最終的にはククトに向かったように、彼はククトを捨てて地球に来ることも可能なのです。それは、ミューラァ本人にとっては幸せなことでしょうが、その血ゆえに敵国人と呼ばれながらも、自分が根を下ろす場所は生まれ育ったアメリカだけと信じ、それを証明しようと力の限り戦った日系の人々とは違う存在になってしまいます。 彼らと同様の背景を持たせるには、ミューラァもククトに“根”を持っていなくてはなりません。そのために矛盾を承知の上で持ってこられたのが、半分地球人、半分ククトニアンという設定だったのです。
戦場で敵同士として出会ったミューラァと13人ですが、実際のところ、お互い相手をどのように見ていたのでしょうか。 これを推測する材料は、実は不思議なくらい見あたりません。ミューラァのほうは、追跡を始めた早い段階で、“ターゲット”の中にかなりの子供がいることに薄々気付いていたようです。が、それについて彼がどう考えていたか、また、リベラリストに捕らえられた後、実際に13人を眼にしその境遇を知ってどういう思いを抱いたか(44話を見る限り、彼は13人が親を探しているということを知っていたようです。サライダ博士あたりが話しでもしたんでしょうかね)というのは、結局描かれることはありませんでした。 同様に、本編中、13人がミューラァについて、プラスなりマイナスなりなにがしかの見解を示す場面もほぼ皆無です。確かに、ロディやカチュア、スコットはそれなりの考えを口にしますが、それはあくまで「個人」としてのものであり、13人全員の総意ではありません。例えば「ケイトさんはいい人」というような、13人が共通して抱いていたミューラァに対する感想というか、意識は全くといっていいほど見えないのです。 戦場では、敵と味方が必要以上にお互いに対して感情を持つことはありません。逆に、そうでないとできないのが戦闘です。ですから、両者のこのドライすぎる関係にもうなずけるものはあります。 が、一方で、ミューラァと13人との関わりには、他の敵とは明らかに異なった特殊な位置づけがあったことも確かです。そういう意味では、お互いの間に“ただの戦闘相手”というだけではない視点、接点が見られてもよさそうなものです。 ロディ、カチュア、スコットら個人的なエピソードの印象の強力さから、少なくとも40話以降、ミューラァと13人の間にそういったものができていたと思われがちです。が、実際には上記のとおり、最初から最後まで、両者の関係はほとんど接点のないまま終わっています。 なぜ、そんな風になったのでしょうか。 ミューラァの場合、出生後早々と両親を失っており、親との縁は極めて薄くなっています。また、親のせいで自分が苦労をしているという意識を非常に強く持っています。そんな彼にとっては、両親と会うために命まではる13人の思いと行動は、そういうものかと頭では考えても、感覚として理解不能であり、そのため基本的に無関心だったということなのかもしれません。44話でロディに『戦争が終わればいつでも親に会えるんだから降伏しろ』などといきなりピントのはずれたことを言い出してるあたり、その可能性は大いにありそうです。 一方の13人ですが、こちらにはミューラァとやや異なった要因が働いているようです。 ミューラァに関して、視聴者の視点は必ずしも子供たちの視点ではありませんでした。つまり、視聴者に対しては比較的具体的に提示されていた彼の個性、悩み、思いなども、実際の子供たちにとっては「よく見えない」ものであった可能性が大きいのです。従って、子供たちが視聴者ほどにはミューラァを「同じ人間」としてとらえることができていなかったのではという推測ができます。 また、現代より人種混成が進んでいるであろう社会に育ち、現実に異星人のカチュアを仲間として受け入れている子供たちにとっては、彼が地球人とククトニアンの混血であり、そのために苦労をしているということも、いまいちピンとこなかったのではないでしょうか。というか、それについて真剣に考えることができたのは、恐らく、本人の苦痛を目の当たりにしたロディとカチュアだけでしょう。 そんな子供たちにしてみれば、ミューラァは確かに厄介な存在ではあったものの、それ以上の思いを抱くようなものではない……極論すれば、ただの危険物、障害物程度の意識しかなかったのかもしれません。最年長でも15歳でしかない子供に、そんなものに対して何らかの思いを持てというのは、これは無理な話です。 また、制作側の事情を見てみると……どちらかといえばこっちのほうが大きいような気もしますが……あくまでミューラァと13人は「敵対関係」でなくてはならなかったということがあるかと思います。その際、13人が彼に対して何らかの“思い”を抱いてしまうと、彼との戦闘を拒んでしまう可能性がありえますし、ミューラァはミューラァで、彼らを「可哀想な子供」と思ってしまったりしたら最後、例のバイファム世界の大人の不文律──なにをおいても子供は救う──に縛られてしまい、これまた戦闘が不可能になってしまうのです。 別にそれでもいいじゃないか、という見方は、アニメ内での人間関係のパターンが多様化している現在だからこそできることで、当時は様々な事情から、13人とミューラァはあくまでも戦うことでストーリーを作っていく必要があったのだと思われます。そのため、それを阻害するような要因……お互いに対し情を抱くというような展開は、排除せざるを得なかったのでしょう。
ミューラァといえば必ず取り沙汰される「23歳で少佐」の謎。 まあ単純に「年齢設定が33歳から23歳に変更された時、階級を下げ忘れた」というだけの話なのですが……そう言ってしまっては身も蓋もないので、あえて「それが彼の正当な階級である」として、一体どういう経緯で彼がそこまでの階級を獲得したのかを考察してみましょう。 そもそも、高すぎると言いますが、23歳で少佐というのはどのくらい不自然なのでしょうか? 少佐というのは、士官の中でも中堅どころとされています。階級的には、少尉から始まって、中尉、大尉と、下から4番目にあたります(一般的なものです。国や時代によっては異なる場合もあります)。 では、最も若く少尉になる方法といえばなんでしょうか? それはやはり士官学校を出ることです。 この士官学校、入学年齢には高卒程度──18歳前後を定めている場合が多いようです。そして、入学後4年前後で卒業、数ヶ月から1年ほど“見習い”とか“候補生”とか呼ばれる期間を過ごした後、いちばん下っ端の士官である少尉に任官します。つまり、最も順調にいって、少尉に任官するのは22歳前後になり、どんなにミューラァが優秀でも、常識的な道を行く限り、23歳で少佐にまでなるということはありえません。 以上終わり。 ……で終わってしまっては全然面白くないので、何とか「23歳少佐」を成立させるべくいろいろひっくり返してみました。すると、かの田中芳樹作の『銀河英雄伝説』では、ラインハルトが幼年学校卒業後すぐ少尉任官という経歴を持っているではありませんか。 これです。 天下無敵のラインハルトとミューラァを同格に考えるのはかなり無理がありますが、たとえば、ラインハルトをモデルケースとして、14歳で幼年学校に行ったミューラァが17〜18歳あたりで卒業、その後すぐに少尉になって昇進を重ねたとすれば、かろうじて計算を合わせることができます。というか、これ以外の方法では、実はククトでは少佐が士官ではいちばん下の階級だったとでもしない限りどうにもなりません。 実際には幼年学校というのは、いわば軍付属の中学や高校、あるいは士官学校の予備校とでもいったもので、ここを出てすぐ実務につくのはまず無理です。が、当時のククトが、地球との開戦を視野に入れ、士官を早く大量に育成する必要に迫られていたとすれば、幼年学校でもある程度の実践教育がなされ、卒業後は軽度の研修程度で少尉任官できるような制度があったと考えることは不可能ではありません。 とまあ、かなり強引なこじつけですがこんなのを考えてみました。 いかがでしょうか?
『銀河漂流バイファム13』には、もうひとり、地球人とククトニアンの混血が登場します。 彼の名はアラン・チェンバー。遭難した地球人科学者ポール・チェンバーと、彼を救助したククトニアン科学技術者グループのひとり、リグレーとの間に生まれました。が、後に地球人との混血という出生に悩んで家出、数年後に「地球人もククトニアンも関係ない」という境地に達して帰宅したものの、反政府主義者として軍に追われる両親をかばって18歳の若さで死亡します。『13』の後半は、この息子の弔いの地へ向かおうとするチェンバー老夫妻と、13人の冒険(?)になります。 アランというキャラクターは、ミューラァを意識して作られたものと推測してほぼ間違いはないでしょう。『13』でかなり具体的に綴られるその生い立ちは、ミューラァがついぞ語ることがなかった彼の生い立ちに重なり、「地球人もククトニアンもない」と、自らの存在と親への理解を示したアランの姿は、もしかすると、ミューラァもそうなりえたかもしれなかったという思いを抱かせます。 ですが、ミューラァとアランの間には、ひとつ大きな違いがあります。それは、アランが既に死んでいるということです。そしてこの一事によって、バイファム世界中での彼の存在は、全く無意味なものになってしまいました。 物語とは、生者によって紡がれていくものです。特にバイファムでは、基本的に死者には思い出程度の価値しかありません(ケイトさんがいい例です)。つまり、「ミューラァに思いの外人気が出たので、似たようなキャラクターを出して人寄せ」というにしても、死んでしまっているのでは全く意味がないのです。 それどころか、彼の唯一の登場は、両親の──死者への哀惜からかなり美化されたことが確実な──回想シーンの中だけです。そこは13人の入り込む余地のない、ありていに言えば、チェンバー夫妻の自己満足の世界でしかありません。いわゆる「敵がいないとやりにくいということで」登場した後出しキャラクターながら、混血という設定をフル活用して子供たちと関わり、バイファムの世界構築に貢献したミューラァとはその点雲泥の差があります。 そもそも、チェンバー夫妻にしても、良く考えてみれば、普通に「リベラリストに身を投じた息子が自分をかばって死んだククトニアンの夫婦」であれば充分であり、わざわざ地球人とククトニアンのカップルにする必要は全くない訳で、一体なぜ、このようなキャラクターを作る必要があったのか、理解に苦しみます。まさか「ミューラァの両親が生きていたら、こんな思いだったんだよ」というのを描きたかった訳でもないでしょうが。 精一杯好意的に見れば、アランが既に死んでいるというのは、ミューラァの「価値」を損なわないようにするための、スタッフの苦肉の策だったのかとも推測されます。異星人との混血という、確率的にありえないような存在が、ポンポン13人の前に現われるというのは、いくらなんでも不自然すぎると判断したのかもしれません。 また、アランが子供たちと直接からめば、ミューラァ同様いろいろな意味で彼らに大きな影響を残さざるを得ません。『13』があくまでも本編の中に含まれる物語である以上、それは避けなくてはならなかった、というのもあるのでしょう。あるいは、“理想”に目覚めたアランがあっけなく死亡し、自分の存在に答えを見いだせないままのミューラァが、軍将校という高い社会的地位のもとに人生を重ねているという所に、現実の残酷さを表わしたのかもしれません。 いずれにしろ、スタッフが語ろうとしていた物語が「アランの」ではなく「チェンバー夫妻の」になってしまっている時点で、その考証も無意味なのですが。 もし、アランというキャラクターを最大限活かしたかったのであれば、そういった整合性に目をつぶってでも(そもそも『13』では整合性など最初から考えてないのですから)、生きたアランを登場させ、子供たちと直接からませるべきだったでしょう。たとえば、家出中のアランが旧タウトに隠れ住む両親の元へ戻るのだという話にでもなっていれば、「地球人もククトニアンも関係ない」と言う彼は、もしかするとミューラァ以上にバイファム世界で重要なものとなったかもしれません(というか、ミューラァのケースよりよほど物語としては真っ当です)。 そして、後に出会う──物語内の時系列では──ミューラァの、混血であること=自己の存在をどこまでも否定し続けることのいびつさが、よりリアルな対比となった表われたと思われます。 また、『13』は時系列的には本編の26話と27話の間にはさまる話であり、カチュアが異星人である自分の有り様というものを強く意識し始める時期に当たります。この時にアランと出会うことは、彼女にとって大きな意味となったのではないでしょうか。もちろん、『13』は後付けの物語であり、カチュアが悩んだ挙げ句にリベラリストと行動を共にするという結末には変わりはないのですが、少なくとも、視聴者側の印象は変わったはずです。 何より、過去を悔やむじじばばが右往左往するよりは、よほど見ていて爽快な話になったことでしょう。 |