Original Story of VIFAM | |
選択肢
![]() 国連は、派遣軍をイプザーロンから撤退させることを決定した。 同時に地球上の全ての国家が、自国民に対し、ククト、ベルウィック、その他イプザーロン各地への渡航中止、現地からの速やかな退避を勧告した。仕事の都合、ククトニアンと結婚した等、やむを得ぬ事情で当面残留する者の保護のために、ごく少数の国連軍部隊が留まりはするが、この部隊はコロニー政府とリベラリストの間の闘争には一切関わらない。 これは事実上、地球人のククト放棄宣言──及び、リベラリスト勢力への“もうつきあいきれない”という宣告──と言えた。 「やっぱり、暗殺はまずかったわね」 最終決定会議に同席したコヤマ大佐の感想である。 「それまで何とか我々が協力できていたのは、これが自由で公正な国家を作るための戦争であるという位置付けだったからなのよ。でも、国家主席を周囲の民間人もろとも爆殺されてしまってはねえ……さすがにフォローのしようがないわ。いちばんのリベラリストシンパでも、撤退賛成に回らざるを得なかった」 「しかし、妥当な判断だとは思いますよ」 ハラワジー大尉が声をあげる。 「ククトニアンたちは、こちらの支援をあてにしてるからコロニー政府との対立を際限なくエスカレートさせていくんです。我々にも我々の都合があるともっと早くに言うべきでしたよ」 「同感です」 リード少尉がうなずき、他のスタッフたちの口からも同意のつぶやきがもれた。コヤマは両手を上げて彼らを制する。 「ただし、撤退が決まったということと、実際に撤退できるかということは全く別の話です。コロニー政府の態度はまだ分かりませんが、まず大人しく見送ってくれるとは思えませんし、リベラリストたちからもこれまでのような協力は得られなくなるでしょう……つまり、状況的にはむしろ厳しくなる可能性が高い」 「…………」 「ですが、この期に及んで戦死者を出すことは許されません。我々司令部の責任は、このステーションの全員を無事地球に帰還させることです。難しいとは思いますが心してください」 「分かりました」 皆のうなずきを見てコヤマは満足そうに微笑み、一同を解散させた。 自席に戻りかけたフレッチャー少佐は、隣で不意に聞こえたため息に驚いた。 「あ……すみません、少佐」 彼の視線にあわてて口を押さえたのは、まだ若いヴリヤノフ伍長だった。あまり話したことはなかったが、事務処理能力が高く、明るい性格で周囲の評判は悪くない。 「何か悩みでも? 良ければ相談に乗るぜ」 冗談めかしてフレッチャーが言うと、彼は青くなったり赤くなったりしながら口の中で何やらもごもごとつぶやき、ひとつぺこりとお辞儀をすると足早に離れていった。その態度に若干不審なものを感じたものの、フレッチャーはじきにそのことは忘れてしまった。 というより、そんなことになど構っていられないような話が、彼自身に降りかかってきたのだった。 数時間後、フレッチャーはコヤマのオフィスに呼び出されていた。 「あなたの耳には入れておいたほうがいいと思って」 いつもの通り椅子を勧めながらコヤマは言い、デスクの上で両手を組んだ。彼女のこの癖が出るのはあまり良くない話の時である。自分の鼓動が大きくなるのを感じながら、フレッチャーは彼女の次の言葉を待ちかまえた。 「撤退に際して、我々側の捕虜は全てリベラリストに引き渡すことになりました」 「……?」 一瞬首をかしげたフレッチャーだったが、すぐにその言葉の意味に思い当たってはっとした。思わず身を乗り出して確認する。 「スレン・ダウアもその中に入ってるんですか?」 「例外はありません」 事務的にコヤマは応じた。 「引き渡された後はどうなるんですか?」 「さあ、恐らく改めて収容所か何かに入ることになると思うけれど……」 ククトニアンが戦争捕虜をどう扱うかについては、分からない部分も多い。どうやら地球のように法で明確に定義された基準というものがないらしいのは確かだったが、では一体どういう風にしているのか、地球人が干渉する問題ではないと彼らは頑として明かそうとしなかった。 ただ、噂によれば、地球側の捕虜になったコロニー政府のククトニアンたちは、皆一様に「捕虜とは思えない待遇だ」と驚くという。だが食事にしろ居住設備にしろ、捕虜に与えられるのはせいぜいが一般兵士と同程度でしかないはずだったから、ククト側の扱いは推して知るべし、なのだろう。 フレッチャーは、自分が何だか落ち込むのを感じた。 「その……何か手だてはないんでしょうか」 「手だてとは?」 「例えば……」 言いかけて彼は言葉に詰まる。事実はどうあれ、公的にはフレッチャーとダウアは赤の他人である。多少面識がある程度の理由で、その扱いをどうこう言えるものではなかった。もし仮に言えたとしても、少佐でしかないフレッチャーには彼を救えるような力などあるわけがない。 もしかすると親父なら……そう考えかけ、慌てて彼はそれを打ち消した。実はフレッチャーの父はそれなりに政財界に顔が利く。多少無理な頼みをしてもあの父なら聞いてくれるだろうが、さすがに限度というものはあった。自分は本当は異星人で、捕虜の中に兄弟がいるから助けてくれ、などと言ったらきっと卒倒するだろう。 一体どうしたらいいんだ、と、フレッチャーは淡青色の髪を片手でかき回し、ため息をつく。 そんな彼にコヤマはどこか慎重なまなざしを向けていたが、やがて再び口を開いた。 「ダウア大尉の件も問題だけど……あなた自身の問題はどうするの? 少佐」 「俺……私自身の?」 フレッチャーは目を見張った。コヤマはうなずく。 「まだ誰もはっきりとは言わないけれど、地球では少なくない人々が、ククトは友人にも投資先にも値しないと考え始めている……世論の流れを考えると、今回の撤退は、そのまま両国の国交の中断につながる可能性が高いでしょう。もしかするとこの先、地球がククトと関わることは二度とないかもしれない」 そこまでしか彼女は言わなかったが、フレッチャーにはその先に続く話が分かった。 そうなればフレッチャーは、故郷から完全に切り離され、ククトへの反感が植え付けられた地球で一生を過ごすことになる。 ……恐らく、その生活にはなんの変化もないだろう。何だかんだ言っても、地球ではククトニアンに関する意識は薄い。皆これまでどおり、彼の容姿に不審を抱きはするだろうが、それをククトと結びつけることができる者はほとんどいないに違いない。 だが、逆に言えば、ククトニアンであるフレッチャーが地球で平穏に暮らせるのは、人々がその事実を知らないからに過ぎないのだ。もし事実が明らかになった時、彼を待つのはどういう運命なのだろうか。それとも、その運命と向き合わないで済ませるために、ダウアを始めとするククトとのつながりを全て黙殺し、一生涯、自分がククトニアンだということを隠しとおすのだろうか。 「……司令は……私がどうすることを期待しておられるのですか?」 しばしの沈黙の後、抑揚のない声でフレッチャーは問い返した。 「少佐」 「確かに私は人種としてはククトニアンです。ですが、私の人生の基盤は地球にあります。それは私にはどうしようもないことですし、今更変えるつもりもありません……第一、何年か前まで、私はククトニアンなんてのがいることすら知らなかったんですよ。ここまで徹底的に地球人に仕立てあげておいて、今度は自分が何者か意識しろとは勝手な……」 自分の言葉に驚いて、彼は口をつぐんだ。訳が分からないまましばらく黙り込んでから、もごもごとコヤマに謝罪する。 「……すみません、こんなことを言うつもりでは……」 「いいのよ。どうやら私の失言だったようね」 コヤマが言い、組んでいた両手をほどいた。その顔には、本当に申し訳なさそうな表情が浮かんでいる。 「悪かったわ。この話は忘れてちょうだい」 「了解しました……退出してもよろしいでしょうか。打ち合わせがありますので」 「どうぞ」 気まずさを感じながら彼は一礼し、早足でその場を去っていった。 ……結局のところ、コヤマ大佐は自分を心配しているのだろう、と、その時の会話を反芻しながらフレッチャーは考えた。カチュアという少女を見てきたコヤマにしてみれば、似たような境遇であり、年齢を重ねているだけに彼女のような進路変更が難しいフレッチャーの今後には、少なからぬ懸念を抱いているのかもしれない。あまりされて嬉しい類の懸念ではなかったが、考えてみれば、自分の秘密を知る人間が自分に好意的であるというのは、幸せなことなのだろう。 それにしても、あの時どうしてあんなことを言ってしまったのか。と、彼は内心首をかしげる。自分がこうなったのはいくつかの不幸や幸運の結果であり、今更誰かを恨むとか憎むとかしても仕方がないと考えていたはずなのに。やはりどこかで許しがたいものを感じているのだろうか。 「……少佐……フレッチャー少佐……」 自分を呼ぶ声に我に返ったフレッチャーは、夜勤中だったことを思い出して慌てた。どうやら考え事をしているつもりで居眠りをしたらしい。上目遣いに向かいの席のヴリヤノフ伍長を見ると、気遣わしげな視線と目が合い、余計に気恥ずかしくなった。 「少し仮眠なさったらいかがですか、少佐。何かあれば起こしますから」 「いや……大丈夫だ。ありがとう」 身体をのばしながらフレッチャーは応じ、思わず苦笑いをする。 この伍長と夜勤で組むのは初めてだった。あまり親しいつきあいがあるわけではなかったし、いささか手持ち無沙汰気味のフレッチャーと違い、書類をまとめたり何やら入力したりをせっせと続けていたから、彼も話しかけるのを控えていたのだったが……逆に気を遣われては世話はない。 「どうも夜勤は苦手なんだよ。出撃待機ってんなら全然平気なんだが、こう漫然と過ごしてるとつい……」 「少佐にも苦手なことがあるんですね」 ヴリヤノフは屈託なく言った。 「何でもあっさりこなしておられるから、この人は万能なんだなあといつも思ってました」 「やめてくれよ、毎日ついていくだけで精一杯だ。全く、スタッフ業務がこんなに複雑な物だとは思わなかったぜ。RV隊の隊長の方がずっと楽だな」 「少佐はずっとパイロットで?」 「ああ。伍長はデスクワーク一筋か?」 「ヴィックでいいです。はい、そうです」 「偉いなあ」 しみじみとしたフレッチャーの感想に、ヴリヤノフ伍長は照れてうつむいた……と、ふっとその顔が物思わしげなものになり、笑顔が消える。 「……少佐、あの……眠気覚ましと言ってはなんですが……ひとつご相談したいことがあるんです……」 「うん?」 俺でいいのか? と言いかけ、昼間相談に乗ると言ったことをフレッチャーは思い出してうなずいた。ヴリヤノフはためらっていたが、ようやく意を決したように口を開く。 「ククトニアンは、正直地球人をどう思ってるんでしょうか」 「……なんで俺に聞くんだ?」 ヴリヤノフがややひるんだのを見て、知らず口調がきつくなっていたのに気付いた。慌てて咳払いし、意識して優しい調子で言い直す。 「その……少佐はずっとククトニアンと共同で作戦をされていましたから……」 若い伍長はそれでもしばらく口ごもり、やがてもじもじと語を継いだ。 「彼らのことも良くご存じなんじゃないかと……自分はそういうことがほとんどありませんから」 「ああ、なるほど」 フレッチャーはうなずき、何となくほっとした気分で姿勢を崩す。 「ま、ひとことで言えば、俺たちと同じだよ。何のわだかまりもなくつきあってくれる奴もいれば、とことん地球人を憎んでる奴もいる。人によってそれぞれさ」 「そうですか」 「ただまあ、つい最近まで敵同士で戦争してたんだからな。そういう意味での軋轢はあるし、それが原因で理不尽な目に遭うこともない訳じゃない。それに……今回の撤退で確実に連中は気分を害してるだろう。今はともかく、今後はどう転ぶか正直分からないな」 「そうですよね……」 その返事はため息混じりだった。ヴリヤノフのあまりに落胆した様子に、フレッチャーは不思議になって問いかける。 「なんだ? 何か困るようなことでもあるのか?」 「実は……ククトニアンの女の子とつきあってるんです」 「……はあ」 いきなりの話題の飛躍に、何と返事していいものやら彼は困った。とりあえずは無難に「本当か?」と聞き返してみる。 「本当です……それに……彼女、妊娠してるんです」 「…………」 今度はフレッチャーは絶句した。しばらくたって、ようやく言葉を絞り出す。 「それは……ちょっと軽はずみだったな……その子素人なんだろう? 下手すりゃ大問題じゃないか」 「そう言われると思ってました」 いささか気分を害したらしい。あごをぐいと上げてヴリヤノフは応じた。 「でも、自分も彼女も真剣なんです……両方の親を説得できたら結婚するつもりでした。それが、この撤退命令で……」 「結婚は絶望的って訳か……」 後を引き取ったフレッチャーのつぶやきに、泣きそうな顔で彼はうなずく。 「自分が地球へ帰ったら、彼女は自分の子供を抱えてひとりでククトに残されるんです。彼女の両親は地球人を良く思っていませんから、まず援助はないでしょう。そうなったら一体どうしたらいいのか……」 「それで良くそこまでのつきあいができたなあ」 そう言いながらも、彼らの気持ちが分かるような気がフレッチャーにはした。きっと、何とかなる、ふたりで頑張れば何とかできると思ってきたのだろう。 だが、現実は彼らが想像しうる以上に厳しかった。 「少佐は今度の撤退でククトニアンたちは気分を害したとおっしゃいましたね。そんな中にふたりを残したら……それなのに、自分には彼女を守る手段がないんです。本当に、どうすれば……」 「彼女は何て言ってるんだ?」 「いえ、まだ……ククト向けに私用で使える通信回線はありませんし……手紙は出したんですが」 「なるほど」 沈黙が落ちた。指先に髭がざらつくのを感じながら、フレッチャーはあごをなでる。そういえばハラワジー大尉はデスクの引き出しにシェーバーを入れていたな、とふと思い、いや絶対にばれるから使うのはやめておこうと考え直す。 「……正直な所、俺もどうしたらいいのか分からない」 しばらくして、彼はゆっくりと言った。 「きみが軍をやめてククトに残るのも不可能じゃないとは思うが、逆にそれがいろんな意味で彼女の負担になってしまう可能性もある訳だしな。良し悪しだ」 「そうなんです……」 ヴリヤノフは小さく言った。 「残って何とかできるなら、いくらでもそうします。だけど、地球人の自分にククトでできる仕事なんてあるかどうか……むしろ彼女のほうが、子供に加えて自分まで守らなくちゃならない羽目になるかもしれない。そうなったら最悪です」 「彼女を地球に連れてくるって選択肢は?」 「無理です。彼女にその気はないですし……異星人なんですよ。地球で暮らせるとは思えない」 「思えない、でわざわざ自分から選択を狭めることもないと思うぜ」 フレッチャーは肩をすくめた。 「どうしても一緒になりたいなら、あらゆることを考えるんだな。そして、少しでも希望が大きいほうに乗っかるんだ。あれは無理、これは無理なんて最初から決めちゃいけない」 「それは……理屈ではそうでしょうが、そううまくは……」 ヴリヤノフのぐずぐずした物言いは、なぜか妙にフレッチャーの疳に触った。自覚はなかったが、やはり眠くていらついていたのかもしれない。 「ひとつ話を聞かせてやろうか、ヴィック」 彼は椅子に座り直し、息をつくとヴリヤノフを見た。 「いいか、ここに兄弟がいる。両方とも軍人だが、片方は捕虜になっちまってこの先どうなるか分からん、片方は撤退命令のままに地球に帰ることになる。両者に選択の余地はない……そんなのに比べたら、選択肢がある分、きみたちは幸せじゃないか?」 「でも、そんなことは現実にはあり得ないと思いますが」 幾分疑わしげにヴリヤノフは応じる。フレッチャーはとん、と指先でデスクを叩いた。 「あるさ、俺が地球に帰る片方だ」 「…………」 ヴリヤノフは愕然とした顔になった。何か言おうとして口を開けるが、言葉が出てこない。しばらくの間努力してから、若い伍長はようやく言葉を絞り出す。 「……知りませんでした……申し訳ありません……」 「まあ、誰にも言ってなかったことだからな、謝ることはないさ……と、他の連中には内緒にしといてくれよ。変に話を大きくしたくない」 「はい……すみません……」 彼にそこまでショックを与えたことを、フレッチャーは幾分後ろめたく感じた。罪滅ぼしでもするような気持ちで思いついた言葉を口にする。 「とりあえず、何かうまい方法がないか俺も確認してみる。だからあまり思いつめないほうがいい。思いつめるとアイディアも浮かばなくなるからな」 「ありがとうございます。あの……少佐……」 「ん?」 「無事、戻られるといいですね、ご兄弟……」 「……ああ、ありがとう」 ほろ苦い気分でフレッチャーはうなずき、笑顔を見せた。 「この書類を、アルファ基地のフリーマン准将に届けてください。機密Cです」 「私がですか?」 「いつもはラニ中佐にやってもらっているのだけど、彼には別の用事が入ってしまったのよ」 そう言うと、コヤマ大佐はフレッチャーのほうにディスクケースを押しやった。当惑しながらもフレッチャーはケースを受け取ると、規則通り彼女の前で指紋錠の登録をする。 アルファ基地か、と彼は思った。そこにはダウアがいる捕虜収容施設も併設されている。まあまず無理だろうが、時間があったら面会できるか交渉してみようか……。 「定期便は明日8時出発です。それと……髪の色は変えていったほうがいいかもしれないわね」 「は?」 コヤマはどこか秘密めいた黒い瞳を、フレッチャーの淡い青色の髪に向けた。 「あそこの捕虜収容施設にはダウア大尉がいるのよ。まずないとは思うけど、万一何かの間違いで彼が脱走したとでも思われたら困るでしょう?」 「……はあ」 何となく内心を見透かされたような気まずさでフレッチャーはうなずき、この大佐は何か俺に隠してるな、と思った。それが何なのかは見当もつかなかったが、とりあえず自分にとって悪い事ではないだろうと考えられるくらいには、彼はコヤマを信頼している。 結局、あまり深くは問わないことにして、彼は上司に敬礼した。 フリーマン准将は、一見気難しげだったが話してみると気さくだった。初対面のフレッチャーを自ら案内しながら、彼は言った。 「グレース・コヤマには昔散々弱みを握られていてな。こういう頼みをされると断れんのだよ。お前さんも用心したほうがいいぞ。まああんまり度々でないのが幸いだが」 「はあ……」 わはは、と笑うフリーマン准将に、もう遅いかもと思いながらフレッチャーは相槌を打った。そうしながらも、彼は自分をどこに連れていくのだろうと首をかしげる。 書類の受け渡しそのものは、すでにフリーマンのオフィスで完了していた。その後5分ばかり他愛のない話をした後で、おもむろに彼はフレッチャーについてくるよう促し、オフィスを出たのである。 「さて、ここだ」 やがて、会議室のドアの前でフリーマンは立ち止まった。 「本来ならこれは規則違反なんだがな。ま、この程度なら破った所で何の影響もなかろうから遠慮することはない。時間は30分。男同士の友情を暖めあうにはちと不足だろうが、これで我慢してくれ。おお、会議室の表示を機密にしておくのを忘れないようにな。現場を押さえられたらわたしも言い訳できん」 「男同士の友情?」 「うむ、敵同士ながら戦場で芽生えた友情。いい話ではないか。コヤマもなかなか味なことをするようになったな。さすがに伊達に歳は取らなかったということか……おっと、本人の前でこんなことを言ってはいかんぞ。では、30分後にMPを寄越すから。そうそう、これが翻訳機だ」 「…………」 勝手にまくしたてて去っていくフリーマンを、フレッチャーは半ば呆然として見送った。が、通りがかりの兵士の不審そうな視線に気付き、疑問符だらけになりながらもとりあえず会議室のドアを開ける。 と、ぽつねんと座っていたスレン・ダウアが顔を上げ、驚いて背筋をのばした。 「……?」 数秒間、呆けたようにお互いを見つめ合ったふたりだったが、一瞬早く我に返ったフレッチャーが泡を食って中に飛び込み、ドアを閉めた。入り口の表示を『機密』に切り替え、ロックがかかったのを確認してから大股に歩み寄る。 「何でここにいるんだ?」 まさか脱走──と問いつめかけた彼に向かって、ダウアがククト語で何か言った。フレッチャーは面食らい、慌ててフリーマンからもらった翻訳機を身につける。途端に翻訳されたダウアの言葉が耳に飛び込んできた。 「一体なんだ、その頭は」 「…………」 完全に勢いを削がれたフレッチャーは、大きなため息をついて手近の椅子に座り込んだ。力のない笑みを浮かべると、黒く染めた自分の髪をつまんでみせる。 「そう言うなよ。眉毛まで黒くするのは大変だったんだぜ」 「全然似合ってないぞ」 「他に色がなかったんだよ」 彼はもういちどため息をつき、幾分非難めいた目つきでダウアを見やる。 「それにしても、何でここにいるんだ? びっくりしたぜ」 「それはこっちが聞きたい」 訳が分からない、という仕草でダウアは応じる。 「いきなり宿舎から連れ出されてここに入れられたと思ったら、お前が来たんだ」 「…………」 フレッチャーは眉を寄せて考え込んだ。しばし後、はたと膝を叩く。 「コヤマ大佐だな」 「?」 「うちの司令が仕組んだんだと思う……フリーマン准将にお膳立てを依頼したんだ。俺たちのどっちにも知らせずに」 ここへ来るまでのいきさつを、手短に彼はダウアに話した。ダウアは何とも形容しがたい表情をした後、ふんと言う。 「余計なお節介をするものだ」 「全くだ。最初からきちんと言ってくれれば良かったのに」 ようやくリラックスしたフレッチャーは、あたりを見回すと給湯機を見つけて立ち上がった。 「何か飲もうか? と言っても地球の飲み物しかないが」 「コーヒーはあるか?」 「勿論」 返事をしてからフレッチャーは驚いて振り返った。ダウアは挑戦的な、それでいてどこかきまり悪げな顔になる。 「それがいちばんククトの飲み物に風味が似てるだけだ。別に積極的に飲みたい訳じゃない……何がおかしい?」 「いや、別に……ホットとアイスのどっちで?」 「あんなのを温かくして飲めるのは地球人くらいのものだ」 「了解」 微笑を押し殺してフレッチャーはコーヒーをふたつテーブルに運んだ。ふたりが紙コップに口をつける間、沈黙が漂う。 「……そういえば、地球軍は撤退するそうだな」 コップを置き、ダウアが口を開いた。フレッチャーは彼に視線を向ける。 「知ってるのか」 「我々の中にも地球語が分かる者はいる」 我々、というのはここの捕虜たちのことだろう。フレッチャーはうなずき、再びコーヒーを飲んだ。 「お前も行くのか。奴らと一緒に」 「……ああ」 自分の人生の基盤は地球にあるし、それはどうしようもないことだ……コヤマにはそう言いきったはずなのに、答える時に胸が痛んだ。ダウアは「そうか」とだけ言い、しばし黙り込む。 「皮肉なものだな。私たちの両親も姉も地球人に殺されたのに」 その淡々とした言葉は、それだけにフレッチャーの心に深く突き刺さった。彼は唇を噛んでうつむく。 「……すまん」 「別にお前は悪くない。どのみち、お前に選択の余地はないんだろう?」 「まあな……」 あの時コヤマは失言だと言った。だが、彼女が考えも思惑もなくあんな話をするはずがない。一体、彼女は何を伝えたかったのだろう。 ククトニアンとしての自分を活かす選択肢が、どこかにあるとでも言うのだろうか。 「……正直、俺はどうしたらいいか分からないんだ」 「何を?」 「俺自身をさ」 フレッチャーは両手を広げ、自分自身を指差す。 「確かに地球人は俺から家族と本来あるべき人生を奪った。そして真実も知らせずに俺を地球人に仕立て上げて、当然のようにククトニアンと争わせている……なあ、分かるか。あんたを救助した戦闘。あの時俺は実の兄弟をこの手で殺すところだったんだぜ。しかもきっと一生それを知らずに終わったんだ。こんな酷い話があるか?」 「…………」 「でも……一方で、地球は俺にとって居心地の悪い場所じゃないことも確かなんだ。親父もお袋も実の子供同然に俺を可愛がってくれたし、暮らしにだって不自由したことはない。世間も俺の外見に注目こそするが、変に詮索したり勘ぐったりすることもなく受け入れて、俺が進みたい道に進むのを支援してくれた」 「それは地球人どもがククトニアンの存在を知らなかったからだろう」 「勿論、それは大きいだろう。でも、俺が地球から他と全く隔てなく……むしろ恵まれているくらいのものを分け与えてもらったっていうのは事実だ……だから俺はどうしたらいいのか分からない。地球か、ククトか、どちらの側で考えればいいのか」 そもそも、そう考える権利すら自分にはあるのか……言葉を切ったフレッチャーを、ダウアは黙然と眺めていた。と、ふとその視線をそらし、首もとにのぞく傷跡に手をやる。その仕草に気付いたフレッチャーは、慌てて片手を振ると笑みを浮かべた。 「悪いな、変な愚痴聞かせるみたいになって」 「……たいした男だな。これだけの話を愚痴で済ませるつもりか」 「何怒ってるんだ」 「別に怒ってなんかいない。私もどうしたらいいか分からないだけだ」 つっけんどんにダウアは言い、紙コップをひっつかんだ。 「いいか、私はずっと、地球人を家族の仇だと思ってきたんだ。地球につながるものは何もかもを嫌って、憎んできた……それがどうだ」 やけになったようにコーヒーをあおり、大きくむせる。 「おい、大丈夫か」 「触るな……それがどうだ。実は兄弟は地球人に助けられ、自分の出自も知らないままのんびり育っていた。しかも奴のまわりの地球人たちは、奴への好意を私にまで向けようとする」 「……誰かそんなことしたか?」 「お前がいなかったら、私はこんな特別扱いをされていたと思うか?」 「…………」 「地球人を憎んで、奴らを叩きのめしたくて軍に入って……待っていたのがこんな結末だとはな……私は一体どうすれば、何をこれから憎めばいいんだ? 今までの私の思いは、人生は何だったんだ……分からないのは私のほうだよ……」 まるで血を吐くようなダウアの言葉だった。フレッチャーは途方に暮れて、自分と同じ色の眼が苦渋をたたえて揺れるのを見つめる。 やがて、彼はテーブルの上の、白くなるほど握りしめたダウアのこぶしに目を落とした。一瞬、手をのばしてそれに触れようとしたが、思い直すと椅子にもたれかかり、ひとつため息をつく。 「……きっと俺たち、お互いの世界を壊しちまったんだな……」 そのままぽつりと彼はつぶやいた。 「出会わなければ、それなりに納得して暮らしていけたのに……」 もちろん、それは無知のなせるわざであり、正しいことではない。だが、再会さえしなければ、真実を知ることで人生の根本が崩れてしまう事態に追い込まれ、ふたりとも苦しむこともなかっただろう。 もしかすると、いっそ出会わなかった方が……。 「会わない方がどちらも幸せだった、と言うのはなしだぞ」 不意にダウアがいらついた声を出した。握ったままのこぶしをフレッチャーにつきつける。 「どうせいつかお前は自分がククトニアンだということを知るんだ。そしてきっと家族の行方を調べる気を起こす。その時、私がお前との戦闘で死んでいたら、それでもそのほうが幸せだと言うのか?」 「……もっとつらいな」 「だろう? たとえこれまでの人生が全く崩れることになったとしても、こうやって顔をつきあわせてそれをぶちまけあえるほうがまだマシだと思うが」 「…………」 微妙に彼が論理をすり替えているのにフレッチャーは気付いたが、あえて指摘しなかった。ダウアなりに気を遣ってのことだというのが分かったし、それを嬉しくも感じたからである。 もし一緒に育っていたら、どんな兄弟になっただろう、とフレッチャーは思った。地球ではいたのはやや歳の離れた姉だけで、彼女もそれなりに頼もしい存在ではあったが、やはり男兄弟、しかも双子とは全く感覚は異なるに違いない。 だが、それはもはや届かぬ夢だ。空想すれば楽しいだろうが、決してそれが現実になることはない。それよりも、新しく得た家族とその絆をどう未来につないでいくか、それを考える方が遙かに建設的だ。 「なあ」 「?」 「怒らないで聞いてくれよ……もしどちらかを選べるとしたら、どちらを選ぶ?」 「何をだ」 「国連軍が撤退した後のことだ。リベラリストに引き渡されて連中の収容所で暮らすことと……地球にいる兄弟を頼るのと」 一瞬、ダウアは眉をつり上げて何か言いかけた。が、フレッチャーの顔を見て思い直したように口をつぐみ、考え込む。 「……収容所にしておこう」 しばらくしてから彼はそう答え、肩をすくめるのに当たる仕草をした。フレッチャーはうなずく。 「そうだとは思っていたよ。ただ……確かめたかったんだ」 「言っておくが、お前の申し出が嫌な訳じゃないからな。私はここにいる捕虜の中では最上級の士官だ。他の者たちに対して責任があるし、ひとりだけ特別扱いされるべきじゃない……それだけだ」 「ああ、分かってる、ありがとう」 フレッチャーは片手を上げ、笑顔になった。 「あの写真も返さないとな。実は持ってきてはいるんだが、こんな事になるとは思わなかったから荷物の中に入れっぱなしだ。後で誰かに頼むよ」 「別にかまわん」 「そうはいかないさ。大事な写真だ。ちゃんと複写は取らせてもらったから気にしないでくれ」 その時、控えめなドアホンの音がした。ふたりはびくりとして振り返る。 『フレッチャー少佐。MPのフランドル准尉です。30分たちましたが、よろしいですか』 フレッチャーが椅子から飛び上がり、ドアホンに駆け寄った。 「……あと5分、あと5分だけ待ってくれ! それ以上はのばさないから!」 ある程度大目に見るようフリーマン准将から言われていたのだろう。『分かりました』とだけ応じて声は沈黙する。 「なあ、こんな時に何だがひとつだけ相談に乗ってくれないか。部下のことなんだが」 席に駆け戻ったフレッチャーは、真剣なまなざしでダウアを見た。その雰囲気にダウアは気圧されたようにまばたきをする。 「唐突だな。私に乗れるような相談なのか」 「ああ、ククトニアンの側の意見を聞きたい」 フレッチャーは、ヴィック・ヴリヤノフ伍長のことを手短に説明した。 「……という訳で、彼としては進退窮まったという心境らしい。まあ、最終的には本人たちが決断するしかないんだが、ククトニアンから見て、何か彼にアドバイスしてやれることはないだろうか?」 「……そんなこと、リベラリストどもに聞けばいいだろうが」 ダウアはぶすりと応じる。 「何度も言ったろう。私は地球人は嫌いだ。なんで私が奴らの、しかもそんな個人的な相談に乗らなくてはならないんだ」 「不愉快に思ったなら謝る。でもリベラリストは何と言うか……思想的な偏向があるし、我々を利用しようとする気持ちが強いから、あまりこういう相談向きじゃない。それに……あんたは確かに地球人を憎んでいるが、それでも、俺の存在や、俺がこうなのを否定しないだろう? だから、あんたの答えなら信頼できる気がするんだよ」 「…………」 何とも言えない複雑な表情で、ダウアはフレッチャーの顔を見つめた。そして、彼の視線を避けるように顔をそむけて沈黙する。なぜ彼がそんな表情をするのか分からず、なにか触れてはいけないことに触れただろうかとフレッチャーは心配になった。 やがて、その姿勢のまま、ダウアはおもむろに口を開いた。 「……多分、子供のことをいちばん最初に考えるべきだろうな、彼らは」 「というと?」 「その子はいわゆる混血という奴になる訳だろう」 「そうだな」 「純粋なククトニアンのお前ですら、地球とククトのどちらを取るかで悩むんだ。その……混血児にとっては、自分がククトニアンか、地球人かというのは将来大きな問題になるだろう……ましてや今はこんな情勢だ。子供は自分の育つ環境を選べないのだから、お前の部下もその相手も、自分のことより、どうすれば子供がいちばん悩まない結果になるか、まずそれを考えてやるべきだと私は思うが」 「なるほど」 感心してうなずくフレッチャーに、彼はちらりと自嘲めいた笑みを見せる。 「……まさか私が、混血児の将来について助言することになるとはな」 「え?」 「何でもない。独り言だ……どうやら迎えが来たようだぞ」 再びドアホンの音がした。立ち上がろうとするフレッチャーを呼び止め、ダウアはぎごちなく手を差し出す。 「もう会うこともないかもしれんな。元気で」 差し出された手を、フレッチャーは黙って見つめた。そしてダウアの顔に視線を移すと、自分の両手でその手を包むように握りしめる。 「また会えるさ」 決然と彼は言った。 「あんたの言うとおりだな。自分の世界が壊れてしまったことを嘆くより、こうやって出会えた幸せを喜ぶべきなんだ」 ややいらだたしげにドアホンが鳴り、フランドル准尉が呼びかける声が聞こえた。フレッチャーは早口で続ける。 「あんたは俺のたったひとりの兄弟なんだぞ。このままはいさよならで終わらせてたまるか。そんなことしたらあの世で俺たちの親父やお袋や、姉さんが嘆くだろ」 「…………」 「あんたはあんたの選択をした。だから俺は俺の選択をする。俺は絶対、あんたとの絆を守る」 『フレッチャー少佐……フレッチャー少佐、どうなさいました。大丈夫ですか?』 フランドル准尉の声がやや切迫したものになる。もういちどぎゅっと握る力を込めてから、フレッチャーはダウアの手を離した。ドアに駆け寄るとロックをはずし、MPを迎え入れる。屈強な准尉は敬礼しながらも、異常はないかと探るように素早くダウアと室内に視線を走らせた。眉がわずかに上下したのは、捕虜と自軍の将校の、髪の色以外まるで同じ容姿に気付いたからか。 「悪いな、もたもたしてしまって」 「いえ……フリーマン准将から伝言です。後でオフィスに立ち寄っていただきたいそうです」 「分かった。ありがとう」 フレッチャーと彼が短く会話する間に、准尉の部下がふたり会議室に入り込み、ダウアに手錠と目隠しをしていた。大人しくされるがままになっているその姿に、改めて立場の違いを感じてフレッチャーはつらい気持ちになる。 またいつか、と彼がつぶやくと、ダウアはその声が聞こえでもしたかのようにかすかに口許をゆるめた。そして無言のまま、両腕をMPにつかまれるようにして会議室を出ていく。 その後ろ姿を、フレッチャーはずっと見送っていた。 ククトの空と大地が、コクピットのスクリーンにどこまでも続いている。 真っ青に澄んだ空と白っちゃけた不毛の大地は、どこかちぐはぐのようでもあり、バランスが取れているようでもあった。この土地が緑で彩られるようになるには、どのくらいかかるのだろうとフレッチャー少佐は思う。 内戦さえ起らなければ、ククトでも地球人の技術供与による農業が始まるはずだったと聞いている。そうなれば、あと10年ほどでここも豊かな畑に変わっていたのかもしれない。 一体、この戦争でククトはどれほどのものを失ったのだろう。 『……しっかし、つまんない所ですねえ。この星は』 通信ごしに、列機のディアス少尉の声が聞こえてきた。 『本当になんにもない。これならまだベルウィックの方がましって感じですよ。こうやって見てると、つくづく残留部隊なんて貧乏くじだと思いますねえ』 「まあそう言うなよ」 パイロット課程を修了したばかりのこの少尉は、フレッチャーから見ればひよっこのようなものだった。少尉の一人前な愚痴に、彼は苦笑して応じる。 「核戦争の前には、ここも地球と同じような星だったらしいぜ……俺たちだって、一歩間違えれば地球をこんな風にした可能性があったんじゃないか」 『ああ、そのアーカイブなら見ましたけどね。でも俺たちは実際にはやらなかったでしょう』 どこか勝利感の漂うディアス少尉の言葉を聞き流し、フレッチャーはわずかにRVの進路を修正した。ほどなく、地面にへばりつくように建てられたククト星政府の捕虜収容所が見えてくる。 攻撃の意志がないことを示すために武器と腕を上げて──見ようによっては挨拶の仕草にも見えるかもしれない──彼のRVは収容所上空を通り過ぎた。すぐ後ろをこちらは型どおりに両腕を広げたディアス機が続く。一瞬、地上には労務中とおぼしき複数の人影が見えたが、判別する間もなく収容所は後方に遠ざかっていった。 『……そういえば、隊長は志願しての残留組だそうですね』 再び、ディアスの声が聞こえてきた。 「ああ」 『なんでわざわざこんな所に来ようと思ったんですか? ヴリヤノフ軍曹みたいに別れがたい女でもいたとか?』 やれやれ、とフレッチャーは肩をすくめる。彼は悪い人間ではないのだが、やや遠慮がないのが難点だった。初めて会った際、なぜそんなククトニアンみたいな髪をしているのかと面と向かって問われた時には、さすがのフレッチャーも返答に窮したものである。 「そんなロマンティックな理由ならいいんだがなあ……っと、ビーコンをキャッチ。そっちはどうだ?」 『こっちでも確認しました。応答します』 「了解。やっとおうちへ到着か。長かったぜ」 冗談とも言えない口調でそうひとりごちると、フレッチャーは聞こえないようにため息をついた。 2062年の内戦勃発時、イプザーロン星系に居住していた地球人の数は、民間人だけで3500人あまりを数えていた。 だが現在、その数はベルウィックに182人、ククトに61人となっている。そして、ほとんどの者たちは、両星に新たに設けられた国連軍駐屯地の民間人居住区で細々と暮らしていた。フレッチャーはククト駐留部隊の指揮官であると同時に、この小さなコミュニティの安全に関して責任を持つ立場でもある。 「……フレッチャー隊長……!」 RVから降りたフレッチャーの元へ、ヴリヤノフ軍曹が駆け寄ってきた。 「少佐、捕虜収容所からまた文句が入っていますよ。真上を飛ぶなと何度言えば分かるんだ、とのことです」 「それを言うためにわざわざ出迎えに来たのか?」 「いえ、急ぎの決裁をお願いしたくて。今日中に業者に出さないと間に合わないんです。昨日お出ししておいたんですが、サインを忘れて行かれたようなので」 「あー……それは済まん」 差し出されたファイルに目を通している間に、ディアス少尉は軽く敬礼するとその場を離れていった。片手を上げてそれに応じながら、フレッチャーはヴリヤノフに尋ねる。 「ところで娘はどうだ、元気してるか?」 「はい」 ヴリヤノフは顔をほころばせた。 「赤ん坊って本当に成長が早いですね。ついこの間生まれたばかりだと思ってたのに……ああそうだ、妻がまた少佐を食事にご招待したいと言ってるんですが、明日いかがですか?」 「明日はちょっと先約があるんだ。あさってならいいぜ」 「分かりました。伝えます」 ……あの後、フレッチャーはダウアの言葉を──無論出どころは明かさずに──彼に伝えていた。そして、それを聞いたヴリヤノフは、残留部隊に志願してククトに残ることを選択したのだった。 それが正しいのか、間違っているのかは分からない。そもそも、彼らの子供に地球人、ククトニアンという区別をつけることが可能なのかどうかも、フレッチャーには分からなかった。ダウアの言うとおり、純粋なククトニアンの彼ですら、生まれた地と育った地のどちらに自分が属するかで悩むのである。両星の血を持つ子供にとっては、より世界は複雑なものになるだろう。 そして、問題はそれだけではない。 残留部隊がいつまでククトにいられるのか、現在の所全く不明だった。数年かもしれないし、もしかすると、数ヶ月後には撤収となるのかもしれない。いずれにしろその時が来たら、ヴリヤノフはもういちど、今度こそ最終的な決断を下さなくてはならなくなるだろう。地球とククトとどちらを選ぶのかを。自分が誰のために生きるのかを。 「よし、承認完了。後は頼んだ」 「はい。ありがとうございます、隊長」 ……まあ、俺も人の心配ばかりはしてられないな、と、走ってオフィスに戻るヴリヤノフの後ろ姿を見送りながらフレッチャーは思った。ククトの風に吹き乱される淡い青色の髪をかきあげる。 スレン・ダウアとの絆を守るために就いた残留部隊の隊長職だったが、肝心のダウアとは話どころか連絡すらできていない。せいぜい、哨戒や運用飛行の最中に、彼が暮らす収容所の上空を挨拶代わりに飛んでみせるのが精一杯だった。コヤマ大佐の助けも借りてククト星政府と談判し、フレッチャーに連絡なく彼を移動させたり処遇を変えたりしないことを確約させたのはささやかな勝利だったが、逆に言えば、それはダウアを人質に取られたも同然ということでもある。そればかりか、地球人の安全を守るべき責任者が、実はかつて地球人に家族を殺されたククトニアンであるという、公になればフレッチャーの立場を危うくしかねない秘密をも、ククト星政府に握られることになったのだった。 もっとも、彼自身はそれについてあまり心配していない。現在のリベラリストたちにとっては、政治的にも軍事的にも彼の使い道はほとんどないからである。せいぜい、将来に備えた地球とのパイプとして確保しておくくらいが、ククトニアンたちに選択できる関の山だろう。 「選択……か」 ふと、フレッチャーはつぶやいた。青空を見上げ、その目をダウアがいる収容所の方向に向ける。 彼もヴリヤノフ同様、いずれダウアと地球のどちらを選ぶか──あるいは、ダウアのほうにその選択を迫るか──を決断しなくてはならない。 ……それでも、選択肢があるというのはいいことだ、とフレッチャーは考えた。自分の意志で何かを選べるということは、その先への希望につながる。そして、どちらかを選ばなくてはならないという現実は、人が自分自身を見失うことを防いでくれる。 最初から全てがうまくいく人生などない。悩み迷いながらも選択を繰り返し、より良い道に近付こうとするものなのだ。もちろん、時には不自由な、時には容赦のない選択肢をつきつけられることもある。結果として不本意な選択をしなくてはならないこともある。だがそれでも、人は未来を信じてどちらかひとつを選ぶのだ。自分も、ダウアも、ヴリヤノフも、そして他の人々も。 「……頑張ろうな、お互いに」 同じ空の下の兄弟にそっと告げ、彼は仕事に戻るために歩き出した。 ![]() これでとりあえずフレッチャーの話は最後です。どこかで脇役として出てくることはあるかもしれませんが……おつきあいいただいた皆様、待っていてくださったDORAさん、どうもありがとうございました。 なお、この兄弟の先をちょっと見たい、というかたのために、エピローグをご用意いたしました。実は奇想天外すぎるんで没にした最終章だったりするんですが、まあ、こういうことがあってもいいかなと。 →エピローグはこちら |